クラシック聴いてそうと言われると何だかやるせないのです

私はりんごが手に入った時は朝食に丸かじりしているのですが、職場のひとと昼休みにそういう話になった時過剰なほど驚かれました。せめて切って食べたらどうだと言われたけれど1個のりんごをせっかく独り占めできるのに切り分けるとお行儀のいい4切れのりんごになってしまうので、なるべく芯の部分もぎりぎりまで食べたいと思うのです。

そういう話から「イメージと違う」と言われることがわりとよく発生して、特にどんな音楽を聴いているかという話になった時、顕著に表れます。何故だかわかりませんが、どうやら私は「クラシックとか」を聴いていそうに見えるらしいです。「クラシックとか」の「とか」が何を指すのかは不明です。あくまでも「クラシック」というジャンルの音楽を聴いていそうなのであって、「バッハ聴いてそう」とか「交響曲が好きそう」とか言われたことはありません。

「からさわはクラシックとか聴いていそうだ」と発言するひとは、おそらくクラシック音楽を普段から聴いていないひとであって、己に馴染みのないものを好んでいるようにみえるからさわに壁を感じているのだろうと思うのです。「クラシックとか聴いてそう」は「あなたは私と全く違う世界で生きてそう」と言われているようで、楽しく音楽の話をしたいと思っている私は少し悲しくなります。

誰かのイメージ通りクラシックを聴いているわけではないので、よく聴いている音楽の話をするのですが、相対性理論は「聴いてそう」、ASIAN KUNG-FU GENERATION は「何かわかる」、マキシマムザホルモンは「嘘だろ」という反応が返ってきます。「私もホルモン好き」と即座に返してくれたのは過去にひとりだけでした。未だにLOVE PSYCHEDELICOが好きなのだけれど、話しても周りには知らないひとの方が多くだんだん口に出せなくなってきてそれも寂しく思います。

クラシック音楽には詳しくないですが、毎年正月はウィーンフィルニューイヤーコンサートの放送を観ているので、皇帝円舞曲が好きだとかラデツキー行進曲楽しいとかいった話ならできそうな予感はします。しかし「クラシックとか聴いてそう」と言われて「今年のウィーンフィルの指揮者は大変猛々しかった」と返しても相手との溝が深まりそうなのでやりません。

好きな音楽について誰かと話したいと思うものの、持っているCDやウォークマンやiPodに入っている曲をなかなか見せられないのは、本棚を公開することに似ているのかもしれないと思います。見せたがりの癖に気恥ずかしくて小出しにしてしまうあたり、自分が気持ち悪いだけなのですが「クラシック聴いてそう」と遠巻きにされている時点で何を公開してもそれだけでは距離は縮まらないのでしょう。話をするのはいいけれど外面をなぞるような会話はやるせないです。

 

ぶっ生き返す

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