ただの日記/1月31日

1月最終日。今年の1/12が過ぎた。疲れが抜けない感じがあって今日はおとなしく過ごしていたつもりだが、あまり休んだ気がしない。明日も休みたい。

昨年も今頃から体調を崩しはじめていたから、同じことの繰り返しにならないようペースを落とすことにする。できる限り体や心に負担を感じることや場所から距離を置きたい。体調と相談しながらヨガで体をほぐすようにする。体の凝りはさほど感じていないのだが、それは全身がこわばっているから感覚がないだけだと医師に言われた。

少しずつ薬の量が減ってきている今、胃腸を休めることとよく眠ることを優先して暮らしたい。先日からずっと眠りが浅く気力が湧かない。何かを始めるまでに時間がかかってしまう。無理に何でもやろうとしなくていいと自分に言い聞かせる。

出かける、音楽を聴く、ネットをする、テレビを観る、どれも好きなようにしているようで休息にはつながっていない。小説や漫画を読むことすら本当に休むことを妨げている。2月は家事すらほとんどしない、1日中ぼんやりする日を作りたい。自分を閉店する日がほしい。

いろいろと、何かしていないとだめだと自分に制限をかけていると思う。自分で決めたルールに沿って行動するのは大事だと思っていたが、そろそろルールを見直さないと自滅してしまいそうだ。最低限譲れないことについて考え直す。

2月は劇場や展覧会に行く予定があるから、生活の緩急について行けるように普段よりゆっくりと行動する。

1月の読書記録2

この記事以降に読んだ本です。

karasawa-a.hatenablog.com

本は通勤電車の中で読むことが多いです。最寄りの路線で首都圏のようなすし詰め状態になることはまずありませんが、さすがに雪が積もった日は読書どころではない混み具合でした。

 

屍者の帝国 (河出文庫)

屍者の帝国 (河出文庫)

 

月1冊くらいのペースで『ハーモニー』『虐殺器官』を読み終え、やっと本作に辿り着きました。映画は観ていません。前2作が現実に起こりうるかもしれないディストピアを描いていたのに対して、本作は舞台設定が過去で歴史改変や小説の登場人物が現れるためか、現実とは切り離されたフィクションの感覚が強く、読後感はそれほど重くなかったです。死ぬのは怖いなあと常々思っているのですが、半永久的に生きる屍者になるのもおそろしい。いろいろ思うことはありますが、今すぐに言葉にできないのが歯がゆいです。

同時代が舞台で同じく歴史改変物といえる『ねじまき男と機械の心』(マーク・ホダー/東京創元社)を読んだばかりだったせいか、わりとすんなり19世紀ロンドンに入りこめました。時代背景や歴史上の人物や文学作品を知っていないとわかりづらい部分はかなりあったと思うので、本作から逆引きで歴史本を読んだり小説を探したりするのも楽しそうです。『フランケンシュタイン』読んだことなかったので、これを機に手に取ってみようと思います。あとダーウィンのことがもっと知りたくなりました。

 

ロゴスの市 (文芸書)

ロゴスの市 (文芸書)

 

まだ読みかけですが、乙川優三郎の小説は時代ものだけではなく現代ものもすごく好きです。翻訳家と同時通訳の、ひとや言葉と向き合う姿をゆっくり読み進めていきたいです。志を同じくしたひとたちが、各々のフィールドで闘いながら根元で通じあう感じがとても心地よいです。

 

みんなの作りおき日記 週末ひと手間、平日らくらく。

みんなの作りおき日記 週末ひと手間、平日らくらく。

 

いろんな方のきれいな料理の写真を見ると、自分の茶色い弁当がわびしく見えます。もう、常備菜を保存する容器からしておしゃれ。野田琺瑯なんて持ってません。WECKが使いこなせません。そもそも自分が作ったものを美味しいと言っていいのかどうかもよくわかりません。でもどうせなら食べたいものを自分で用意したいし、楽しく料理したいので、野暮ったい自宅の冷蔵庫の中身とにらめっこしながら、少しずつアイデアを拝借しています。野菜たっぷりの常備菜は眺めるだけで美味しそうだし真似したくなります。

 

少しずつ、本を読む気力が戻ってくるといいですが、無理なくつきあっていこうと思います。

戦おうとする前に信じよ

迫りくる繁忙期に呑まれぬよう一心に仕事をし、議論の場に行っては消耗し、己の不安をなだめようと頑張り、気づけば何でこんなに戦おうとしているのかよくわからなくなってきました。最近ブログにも繰り返し戦う云々と書いている気がします。

 

占いを積極的に見る方ではなくて、今日の運勢とか何座の性格はこうだとか書かれていると信じてなるものかと意固地になってしまうのですが、そんなふうになるのは物事を受け入れたり信じたりする力が足りていないからではないのかと最近思うようになりました。手相や占星術などの方法については知りたいと思いつつも、いざ占いの結果を見て鼻白んでしまうのは、根拠も保証もないものを受け入れようもないだろうという心の狭さの表れなんだろうなと思います。ラッキーアイテムはピンクのクラウンとか言われたらどうかと思いますが、アドバイスのひとつも聞き入れないのは外側から評価される己を素直に受け止められない頑固さにもつながっています。

職場でコミュニケーションがうまく取れない時、私は相手を説得するために己の頑固さと理論武装で意見を伝えようとしてしまいがちです。生半可な言葉では論破されてしまうかもしれない怖れと、言いたいことは思うように伝わらないのだという諦めが、よりいっそう相手との溝を作ってしまうこともあります。相手に対する信頼の欠如によって、常に臨戦態勢で相手を迎える怖いひとになっているのかもしれないです。新しい仕事を誰かに教えるより自分が対応したほうが早いからと何もかも抱え込むのも、根元は同じように思います。

戦うということは敵がいるということであり、孤立する可能性もはらんでいます。孤独に戦わざるを得ない状況もあるとは思いますが、そうなる前に敵対する相手や周りにいるひとたちを、もう少し信じてもいいのではないかと思うのです。1回や2回でうまくいくことの方が珍しくて、失敗の連続でみんなボロボロになってしまうこともあるかもしれませんが、相手に生身でぶつかりながらお互いの歩調を合わせていった方が、長い目で見てよい関係や場所をつくれるのではないでしょうか。

孤立しても立派に立ち続ける己を守るより、失敗だらけでも誰かと前進できる場所を作っていくことに、力の注ぎ方を変えていけたらいいなと思っています。

 

年始に読んだのをふと思い出して読み返したら、もうちょっと信じる気持ちを持ちたいと思った占いでした。

voguegirl.jp

占いはともかく、おみくじを引くのは好きです。

ただの日記/1月28日

先日の雪のせいか屋外に出していたフェンネルが頭を垂れた稲穂の如くぐったりしていた。冬場の水遣りの頻度は少なくて良いということだったが、さすがに枯れてしまうだろうかと今朝久しぶりに水を遣ると帰宅時にはしゃんと上向きに戻っていた。

丈夫で虫がつきにくいらしいと聞いて無精者でも育てられるかもしれないと昨年の夏に購入したもので、おざなりな我が家の管理体制にも文句を言わずこの寒いのに緑色をしている。小さな鉢に植えているせいかあまり伸びないが、本当は2mくらいになるらしい。そんなに大きくなっても困るので今くらいの背丈でちょうどいい。ふさふさした葉をつけるので、頃合いを見てちぎっては鮭と一緒に蒸して食べる。植物はインテリアではなく食物である。

転じて室内で水耕栽培しているミントは紅葉を通り越して真っ白に燃え尽きそうな様相を呈している。茂っていた葉は8割方落ち、いたずらに伸びた茎は赤黒くなるか白くなるかのどちらかだ。水耕栽培といっても空いたペットボトルに苗を挿しているだけなので、こちらもずいぶん丈夫なものだと思う。茎を触るとミントの香りがする。暖かくなって葉がつきはじめたら、またお茶にしようと目論んでいるが果たして今の状態から復活できるものなのか見当もつかない。

子どもの頃から植物を育てるのがあまり上手でなく、夏休みの朝顔の観察日記も一番の見どころであるはずの開花を見逃しており、終わった後の種集めが楽しみだった。ミリオンバンブーは日照不足と根腐れで枯らし、サボテンも気づけば干からびているくらい植物の生育に根気よく取り組めず、そのたびに植物の面倒もみられない無精で冷淡な性格なのだと落胆するのである。水を入れた花器に置いておけば成長して花が咲く球根は好きだった。アボカドの種を育てていたこともあったが、秋口だったせいか葉が4枚ほど出てきたところで成長が止まり枯れてしまった。

繰り返し失敗を経験しているのに植物を育てたい欲はなくならず、性懲りもなくフェンネルとミントを置いているわけだが、どちらも食べられるという実用性を備えているがゆえに、これまでの植物遍歴からすると割り合いうまくつきあっていけているように思う。雪の日に屋外に放置しペットボトルに適当に挿しているだけでうまくつきあっているとはよく言ったものだと我ながらがっかりするが、ともかく生活を共にする植物はいるのである。

以前、高層ビルが立ち並ぶ街を植物でいっぱいにしたいのに、触れる植物みな枯らしてしまう女の子が出てくる漫画を描いた。研究機関で抜群の繁殖力を備えた改良種を生み出すのだが、自分の手で全て枯らしてしまうのだ。自分が築き上げてきたものを自分で壊してしまうのが怖ろしい。いつも、大切なものを自分から失ってしまうのではないかと怯えている。その怖れが物語なのではないかと最近思う。私は怯えながら話をし、文章を書き、フェンネルとミントに水を遣る。

苦しい夜は自分で抜け出すしかないのだ

眠れない時はインターネットなんてしていないで早く布団に入って目を閉じるに限るのです。横になるだけでも体への負荷は軽減されるといいます。それでもPCやスマホの画面を見続けてしまうのは、静かに目を閉じれば不安や怖れが押し寄せてくるためです。何も考えたくないからなんとなくテレビを点け、音楽をかけ、気を紛らわせて時をやり過ごします。

寝つきが悪く眠りは浅く、日中も寝不足の朦朧とした頭を抱えながら息を詰めて何とか仕事をこなし、気づけば1月も終わろうとしているのでした。

 

一朝一夕に健康は取り戻せないし、仕事でコミュニケーションがうまく取れないことによる滞りは自分でなんとかするしかありません。仕事をする気力がないと休んでしまえば経済的に不安定となり、ますます健康を害してしまう状況に陥ります。健康という個人的な部分と仕事という対外的な部分の両立を目指すのは、今の段階では難しく感じます。

最も厄介なのは、両立を目指してうまくいかなかった時に表れる不安です。目に見えない不安は、時に私を社会的にも生物的にも抹殺しようと鎌首をもたげます。あてのない未来に期待を寄せるくらいなら、今ここで全て諦めてしまえと投げやりになることもあります。

健康にならなければならない、仕事に行かなければならない、貯金がなくてはならないとがんじがらめになる癖から抜け出せていないがゆえに、今は暗闇を彷徨う心持ちです。このブログも「ねばならない」のひとつになってしまうのは避けたいので、2月から3月は特に自分の抱えているものとの向き合い方について考えていく時期になるのだろうと思います。

 

薬を飲んだってすぐに回復するわけじゃないし助けてくれと叫んだって誰も助けてくれやしません。自分でまいた種であれ、偶然の産物であれ、直面した問題は自分自身で解決していくしかないのです。暗闇を駆け抜けて光を見つける方法もあれば、暗闇を受け入れて快適に過ごす方法を考えるのもありでしょう。その答えは自分で見つけるしかないのだけれど。

ゆっくり眠りたくてもいろいろな不安や悩みが押し寄せてきます。できれば寝る前の戦いは避けて、昼間の太陽がのぞくうちに己の暗闇をなだめる余裕が欲しいものです。

今夜ゆっくり眠れなかったとしても、毎日、毎晩、戦い続けます。

健康保険の資格喪失の確認連絡がきた

寒さに負けて調子が落ちているので無理に出勤してはいけないと思っていたら、会社から健康保険の資格喪失について確認を受けました。

昨年9月末から11月末までの2か月間休職していたことによって、給与が発生しない期間ができたことと、会社が定める保険の加入条件から外れそうなことが原因のようでした。加入条件を満たせば会社の保険を継続できるけれど、国民健康保険に切り替えるか確認されたので、会社の保険を継続してもらうよう伝えました。医師から休職を勧められ、現在も通院している身なので、資格喪失すると結構困ります。

休職中、給与が発生しない月の保険料は、会社から書面で保険料支払いの案内が届いたため自分で銀行に振込みに行きました。それで大丈夫なのかと思っていたら、以下のような法令があるようです。

3.休職の場合の取扱い
被保険者が休職となり、休職中給料が全然支給されない場合で、名義は休職であっても実質は使用関係の消滅とみられる場合においては資格喪失させる。(昭和6年2月4日保発第59号)

(参考)
労働協約又は就業規則などにより雇用関係は存続するが、会社から賃金の支給を停止されたような場合には、個々の具体的事情を勘案検討のうえ、実質は使用関係の消滅とみるのを相当とする場合、例えば被保険者の長期にわたる休業状態が続き、実務に服する見込がない場合又は公務に就任しこれに専念する場合等においては、資格を喪失させることが妥当である。(昭和26年3月9日保文発第619号)

社会保険労務士の勉強メモ|健康保険法-被保険者資格の取得と喪失

既に職場復帰しているのに、保険の加入条件を満たさない可能性があるらしく、今月は意地でも出勤しないと後々面倒なことになりそうです。一定の勤務日数・勤務時間を満たさなければならないそうなのですが、明確な日数などが規定された文章が見つけられませんでした。このあたりの采配は企業によるのかもしれません。

余談ですが、市民税も1回給与引落が発生しなかったために、残りは個人でまとめて支払うよう通達が来ました。

一定条件下で働いていれば保険の恩恵を受けられるのはとてもありがたいことだと思います。働かざる者食うべからずで保険の資格喪失となるのも致し方ないのかもしれませんが、弱っている時に必要なものがなくなるのは結構な痛手です。

今の仕事を辞めずに、健康を取り戻す方法はないものか……。

雪の下

あのひとに想い人がいるのは知っている。その恋が実る日は来ないであろうことも知っている。不毛な恋に身をやつすあのひとを呼び戻そうとするも、私の声は小さく風にかき消されて届かない。

珍しく雪が積もった朝は交通機関が麻痺し、職場に遅刻の連絡を入れながら白く覆われたいつもの道を幼子の如く歩く。雪は昨夜から降り続き、今もまだ足元で嵩を増やしていく。普段よりも遅れて駅前に着くと、電車を待つ人々の端にあのひとがいた。目立たぬよう柱の陰に身をひそめて、想い人を待っているいつもの姿と変わりない。待ち合わせのためにそこにいるのではなく、さも偶然通りかかったように相手の前へ現れるために、いつも目立たない場所でひっそりと相手を待っているのだ。

下手をすればストーカー扱いされかねない行為をやめさせたくて、声をかけたことがある。部署は違っても同期入社のよしみで話しかける機会はいくらでもあるのだ。ちょうどいい電車があるから一緒に乗らないかと誘うと、待ち合わせしているからもう1本あとの電車に乗るつもりだと断られた。

埃っぽい春の日も、汗が止まらない夏の日も、うら寂しい秋の日も、あのひとは待ち合わせと称して柱の陰に立っている。そんな姿を延々と見続けて、単純なはずだった私のあのひとへの思いは迷路を駆け巡るように乱れはじめ、とても素直に吐き出すのは憚られるものになってしまった。気取られぬよう水の底や枯葉の下や積もった雪の中に封じ込め、それでもあのひとを思うのをやめることはできない。

あのひとの想い人はとうに結婚して子どももおり、週末は家族団欒を楽しむような、生活に恵まれた人物だ。降りしきる雪に凍えながら想い人を待つあのひとを見るにつけ、お前なんかが入り込む隙なんか1ミリもないんだから諦めてしまえと叫んでしまいそうになる。大声でがなり立てれば私の声も届くだろう。ただし張り上げた声に空気は震え、積もり積もった思いが雪崩となってあのひとを襲う結果を招くだけかもしれない。

雪が融ける頃には、封じ込めた思いはもう少し優しくまろやかになって表せるだろうか。雪に埋もれたせいで、冷たく突き刺す言葉そのままが冷凍保存されているだけなら、そろそろ思いを封じ込めるのも限界だろう。単純だった最初の思いを取り戻さなければ、沈み積もった叫びは行き場をなくして私だけでなくあのひとをも苛む。

今日は風もなく深々と雪が降っている。電車待ちの人々の喧騒も雪に吸い取られている今なら、私の小さな声も少しは届くかもしれない。柱の陰にそっと顔を出して、どうせ遅刻なんだから一緒に行きませんかと、本当に伝えたいことは雪の下に隠して声をかけた。