オンライン上で味わう安心感と非日常感

泣き言を連ねていると「大変なのはお前だけじゃないんだ」と半ば怒られて、それでも私はつらいのだとさらに泣き言を繰りたくなるのですが、寒さに震えながらブログやTwitterでここ数日の寒さや雪に関する言及を読むと、私ひとりではないのだと妙に安心します。ネットの繋がりは薄っぺらいなどと言われても、たとえ虚構であっても見知らぬ誰かと自分の考えや感覚が近しいことが読み取れるのは嬉しいことです。

今でこそブログを書きネットでチケット予約をしたりTwitterを眺めたりしていますが、インターネット回線を自宅に引き込んだのは就職してから、携帯電話を持ったのは就職活動をやろうとしていた頃で、それまではネットが必要な時は学校や図書館へ行き、連絡を取りたい相手とは直接会うか手紙を書くかでした。9割方、対面で接する機会のある人物としかコミュニケーションを取らずに生きてきたので、ネット上のコミュニケーションどころか学校の連絡網でひとりだけ自宅の電話番号しか登録していない浮いた存在になっていたようです。

自分のノートPCを購入したのは高校生の頃でした。まだフロッピーディスクが使える当時のVAIOは、ネット回線に繋がっておらず、見せる当てのない文章や絵が溜まっていくだけの私の分身でもありました。ネットがあって当たり前になった現在でも、未だにPCは外部と繋がるためのハードウェアではなく自分の好きなものを放り込んでおく家電扱いです。

何か行動を起こせばオンライン上の知り合いが増えたり同じ趣味嗜好を持つ友人ができたりするのかもしれませんが、道具は便利になっても肝心の使い手が進歩していないので、やっていることは携帯電話を持つ前のパケット通信も回線引き込みも知らなかった頃とほとんど変わっていないのだろうと思います。好きなことを語れる相手がいると嬉しいと思いつつも進んで行動しないのは、画面の向こう側に誰かがいるのだろうと感じられるだけでわりと満足しているのかもしれません。

書いたことに対して一方通行でもいいと思っている節があるので、ブログにコメントやブックマークがついては小躍りし、Twitterでリツイートや返信されようものなら奇声を上げるほど喜びます。過剰に反応してしまいがちなのは日常に組み込まれていないからであって、インターネットが普及し始めた頃はこんなだったのだろうかと、未だにネットの世界に足を踏み入れるのを躊躇している己を感じています。同世代に比べて、旧弊な人間なのでしょう。

1月の読書記録

思うように本が読み進められない日が続いています。1月に読んでまだ感想が書けていない3作品です。感想を書くために読んでるわけではないけれど、書かないと忘れてしまうので今年は昨年より読書記録をきちんとつけたいと思っています。

 

ねじまき男と機械の心〈上〉 (大英帝国蒸気奇譚2) (創元海外SF叢書)

ねじまき男と機械の心〈上〉 (大英帝国蒸気奇譚2) (創元海外SF叢書)

 

 

ねじまき男と機械の心〈下〉 (大英帝国蒸気奇譚2) (創元海外SF叢書)

ねじまき男と機械の心〈下〉 (大英帝国蒸気奇譚2) (創元海外SF叢書)

 

シリーズ2作目だということに気づかず読み始めてしまったうえ、1作目のネタバレもわりとあってショックでしたが、SFあり、ミステリあり、オカルトありで楽しく読めました。架空の19世紀ロンドンが舞台のスチームパンクです。街は巨大化させた虫の甲殻を使った乗り物が走り回り、悪態をつく伝書インコが飛びかう埃と霧にまみれた茶色い風景。タイトルの通り「ねじまき男」は確かに登場するものの、中盤辺りまでは特にオカルト色が強いストーリーで「機械の心」とは……? と読んでいましたが、思わぬところであっと言わされました。

主要な登場人物は歴史上の人物なのですが、巻末には補遺として人物紹介が載っているので、19世紀のことなんてよくわからない私は大変助かりました。主人公の「王の密偵」リチャード・バートンは実在した探検家ですが、敵と戦い推理もするし変装して潜入捜査もするし神秘主義にも通じているスペックの高いヒーローです。1作目から読んだ方がわかりやすいのでしょうが、前作のネタバレを気にしなければ2作目から読んでも充分楽しめると思います。

本シリーズの3作目は1月末に発売予定のようです。中途半端に2作目から読んでしまった身としては、1作目に戻って読み直すか、このまま続きの3作目から読むか悩みどころであります。 

月の山脈と世界の終わり〈上〉  (大英帝国蒸気奇譚3) (創元海外SF叢書)

月の山脈と世界の終わり〈上〉 (大英帝国蒸気奇譚3) (創元海外SF叢書)

 

  

文学会議 (新潮クレスト・ブックス)

文学会議 (新潮クレスト・ブックス)

 

作者はアルゼンチンの作家なのですが、南米の小説というとそれだけで難解で近寄りがたいイメージがあります。ボルヘスを読んでもよくわからなかったといういろいろ足りない私ですが、本作はすごく奇妙な話で一気に読んでしまいました。

表題作は偶然財宝を手に入れたマッド・サイエンティストがクローン軍団を作ったはいいけれどどうやって世界征服しようかということになって、天才のクローンを作ろうとしたら出来あがったクローンがとんでもないものになっていたという話なんだと思うのですが、うまく筋を並べられません。至って真剣なのだと思いますが、読んでいて脱力してしまいました。 

もうひとつの収録作「試練」の方がピンときたかもしれない。少女がふたりの「パンク少女」にナンパされてスーパーを襲撃する物語です。こんなに徹底した行動を起こせるだろうかと思いつつ、自分の目指すところは違うだろうとも思ったり、書かれている全てを鵜呑みにはできないだろうと疑ってみたり。 

もうひとつついでに断っておかなければならないが、<お話>もまた、言説の別の次元では、ひとつ前の<お話>から論理を借りてくるものだ。同様のことは見方を変えれば物語にも言えるわけで、ひとつの物語は他の物語の内在的な論理となり、という具合に無限に連鎖するのだ。それから(そろそろ本題に入りたいのだが)、あれこれと例を挙げて図式的に説明してきたが、だいたい似たりよったりな例を挙げただけで、それらの間に意味の繋がりがあるわけではないこともお忘れなく。

「文学会議」p.24

 

文豪に学ぶ超一流の手紙術

文豪に学ぶ超一流の手紙術

 

夏目漱石や幸田露伴、宮沢賢治、太宰治など著名人の手紙から年賀状や暑中・寒中見舞いのような時候の手紙から依頼状や断り状という実務的なものまであります。実際に手紙を書く参考になるし文章の美しさや面白さも楽しめるのですが、ひとの手紙を見るのは送り主と受け取り手の関係を覗き見るようで、こっそりと読みたくなる本でした。

星新一の昭和63年の年賀状がいいなと思いました。

時のたつのが、早くなりました。

そのスピードを落すよう、本年は

試みてみようと思います。

まずは、おたがいの健康ですが。 

『文豪に学ぶ超一流の手紙術』p.34

久しぶりに手紙を書きたい気持ちになりました。

読みたい本はたくさんあるのに、頭と体がついてこなくて歯がゆいです。今年は作家やジャンルで選り好みせず読んでいきたいと思っています。

笑いを求めている

最近お笑い番組を見ても笑うことができず、どうすれば笑えるかしらと考えあぐねています。

仕事で悶々とした時腹の底に何かが渦巻いていて、それを怒りと呼ぶのかもしれませんが、とにかく誰かと話してはいけないような気になってしまいます。たとえ外側に向けた思いであっても吐き出せば吐き出すほど己を蝕んでいくのを感じるので、何とかやり過ごしたいものですが歩こうが食事をしようが風呂に入ろうが一度溜まってしまったものはそうおいそれと落ち着きはしないのです。

感情のコントロールもできないのはダメな人間だと思っていたのですが、最近はわりと思うままに表出する感情を受け入れようとしている節があります。感情を持つのは自然なことであってコントロールできないほど抱え込んでしまうくらいなら怒りも悲しみも外に出してしまえと、考え方が変わってきました。腹の底にいろいろ溜めている以上、今でも我慢している部分はあるはずなので、我慢しているものをどうやって押し込めるかではなくどんな形で外に出すかを工夫したいと思っています。

どうせ外に出すなら穏やかでありたいとは思いますが、それができたらこんなに溜め込まないでしょう。何か愉快なやり方がないかと模索するも、重苦しい感情に囚われている時に創意工夫するほど頭は回っていません。そのままの感情を吐き出すと己のみっともなさに落ち込んでしまう無限ループに突入です。

楽しくなくても笑っていると楽しくなるという説がありますが、どうも不自然に思えて実践する気になれません。ひとりでニヤついている不審者になってしまいそう。ただし笑いはエロスを打ち消す力を持つくらい強力なので、どうしようもない怒りを吹き飛ばすには笑いを用いるのが効果的なのだろうと思います。

ならばお笑いでも観るのがよかろうと漫才やコントを試聴するもどうにも笑えないのです。面白いと思っても、笑いより先に話や構成のうまさにすごい、と感心していて妙な納得感だけが残ります。笑点を観ても和やかな気持ちにはなるだけで笑えはしません。同じものを見て笑っているひとの傍にいると、自分が喜怒哀楽の喜楽の部分が抜け落ちた生き物であるようで不安になります。

余裕のなさこそが笑いの欠落につながっているのだろうと思います。やりたいことを思いきりするのがいいんだけれど、暮らしに追われている感が拭えません。予定として「何もしない日」を作ろうかな。

 

笑う犬の生活だったら笑えるかもしれない……。リアルタイムで観ていた頃ははっぱ隊や小須田部長、トシとサチが面白かったけれど、今一番観たいのはてるとたいぞうです。

笑う犬の生活 DVD Vol.1 てるとたいぞう完璧版

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クラシック聴いてそうと言われると何だかやるせないのです

私はりんごが手に入った時は朝食に丸かじりしているのですが、職場のひとと昼休みにそういう話になった時過剰なほど驚かれました。せめて切って食べたらどうだと言われたけれど1個のりんごをせっかく独り占めできるのに切り分けるとお行儀のいい4切れのりんごになってしまうので、なるべく芯の部分もぎりぎりまで食べたいと思うのです。

そういう話から「イメージと違う」と言われることがわりとよく発生して、特にどんな音楽を聴いているかという話になった時、顕著に表れます。何故だかわかりませんが、どうやら私は「クラシックとか」を聴いていそうに見えるらしいです。「クラシックとか」の「とか」が何を指すのかは不明です。あくまでも「クラシック」というジャンルの音楽を聴いていそうなのであって、「バッハ聴いてそう」とか「交響曲が好きそう」とか言われたことはありません。

「からさわはクラシックとか聴いていそうだ」と発言するひとは、おそらくクラシック音楽を普段から聴いていないひとであって、己に馴染みのないものを好んでいるようにみえるからさわに壁を感じているのだろうと思うのです。「クラシックとか聴いてそう」は「あなたは私と全く違う世界で生きてそう」と言われているようで、楽しく音楽の話をしたいと思っている私は少し悲しくなります。

誰かのイメージ通りクラシックを聴いているわけではないので、よく聴いている音楽の話をするのですが、相対性理論は「聴いてそう」、ASIAN KUNG-FU GENERATION は「何かわかる」、マキシマムザホルモンは「嘘だろ」という反応が返ってきます。「私もホルモン好き」と即座に返してくれたのは過去にひとりだけでした。未だにLOVE PSYCHEDELICOが好きなのだけれど、話しても周りには知らないひとの方が多くだんだん口に出せなくなってきてそれも寂しく思います。

クラシック音楽には詳しくないですが、毎年正月はウィーンフィルニューイヤーコンサートの放送を観ているので、皇帝円舞曲が好きだとかラデツキー行進曲楽しいとかいった話ならできそうな予感はします。しかし「クラシックとか聴いてそう」と言われて「今年のウィーンフィルの指揮者は大変猛々しかった」と返しても相手との溝が深まりそうなのでやりません。

好きな音楽について誰かと話したいと思うものの、持っているCDやウォークマンやiPodに入っている曲をなかなか見せられないのは、本棚を公開することに似ているのかもしれないと思います。見せたがりの癖に気恥ずかしくて小出しにしてしまうあたり、自分が気持ち悪いだけなのですが「クラシック聴いてそう」と遠巻きにされている時点で何を公開してもそれだけでは距離は縮まらないのでしょう。話をするのはいいけれど外面をなぞるような会話はやるせないです。

 

ぶっ生き返す

ぶっ生き返す

 

 

ただの日記/1月19日

ハンドクリームを塗っても相変わらず手がガサガサしている。手が荒れてから塗り始めても効果はそう易々とあらわれない。自分のメンテナンスをしなくてはいけないと散々思っていたのに、手のひらひとつ面倒を見きれていない。

何もせず1日中ぼんやりと考え事をする日が欲しいと思う。いつも、何かしなくてはいけないと落ち着きがないから「何もしない」ことを目的とするくらいでないと、またハンドクリームを塗ることすら忘れる。

 

仕事よりも自分の体調や精神状態を重視するよう心がけてはいるが、時々意地になって立派に仕事をやってのけようとしている。何がどう立派なのかはわからないが、自分の仕事を抱えず、ひとの仕事を手伝っている現状が根無し草のような気がして、そんな不安を打ち消すために求められる以上のことをしようと思っているのだろう。

誰のどの仕事をどれくらい手伝うかは自分の裁量に任されているので、さぼろうと思えばたぶんいくらでもさぼれる。でもさぼることを良しとしないので真面目に働いていたら、手伝っているこちらの方がたくさん仕事をこなしていることになっていて複雑な思いもする。

 

子どもの頃いじめに遭っていて、そのほとんどが言葉によるものだったが、ある時いたたまれなくなってその場を離れようとすると「逃げるのか?」といじめっ子が漫画の悪役を模した様子で言ってきた。その場に残るのも言葉を返すのも得策ではないと思って無言で背中を向けて去ったら、それ以上追われることはなかった。その後もいじめは続いたが、真っ向からぶつかって問題を解決しようとするのが全てではないと思う。

生きることそのものが闘いであって独りで道を切り開いていかねばならないと張りつめた思いで生活を送るのは大変疲れる。皮肉った声で「逃げるのか?」と聞こえてきたら、その声が聞こえないところまで駆けだしてしまえばいい。勝算があるなら反撃してもいいだろうが、いじめっ子なんぞに無駄なエネルギーを遣うよりは、もう少し闘いから離れて平穏無事にいられる場所を見つけることに力を注いだ方がいい。自分からは逃げられないのだから周りの環境くらいは自分のために整えておく必要がある。

 

今のところ、今年の1月はここ数年の年始に比べて幾分かまともな暮らしをしていると思う。大切なのは心と健康だ。自分を保つための術を身につけていかなくてはならない。

はつ雪の日

今日はこの冬初めての雪でした。

そうはいっても、強風にあおられて地面に着くかどうかくらいのところで消えてしまう、積もらない雪です。九州でも山間部は雪は積もりますが、海沿いの地域は雪よりも風の強さに凍えます。津軽海峡とは比べ物にならないのでしょうが、関門海峡の潮風も肌を刺す厳しさを備えているのです。

寒さに弱く年中手足が冷えているのに、雪が降ると嬉しくなります。

この冬の、初雪やっと会えたから、慣れないながら、俳句10首。

 

初雪は 宙に舞ううち かすみゆく

底冷えの 暗い夜道にゃ 忍び足

氷点下 あなたの部屋は ぬくいかい

寂しさも 覆われ埋もれ 雪に染む

運休だ 休校休業 氷る街

雪積もれ 仕事に行きたく ないんです

凍える夜 重ねたあの手 今は夢

寒がりの くせに身ひとつ 雪遊び

寄る寒波 追い風のって 駆けだせよ

吹雪け空 ひとりで強く 生きてくの

 

俳句じゃなくて川柳かもしれない。17字に込めるのは難しいです。