どうしてだかさびしい。さびしいのだ。

ここ2週間ほど、さびしくてたまらない。自分でも不思議なのだが「さびしい、さびしい」と腹の中から急に何ものかが湧きあがってきて敵わないのだ。ひとりで家にいる時などぬおおと口から洩れることがある。「ぎゃふんと言わせてやる」といいながら実際ぎゃふんなどと言う者はおるまいよと思うのと同じように、ぬおおとかうぎゃあとか活字で表す唸り声をそのまんま口にすることはなかろうと思っていたのに、ここのところ「さびしい」と腹が渦巻いている時言葉にならずウワァーッと叫びそうなのである。買い物したり散歩したりしている最中にも突然そういうふうになるので閉口する。

さびしさを感じることがこれまであまりなかったのもあって、慣れない感覚にびっくりして混乱しつつ「さびしさに襲われる自分」を客観的に見ている自分もいる。いっそのことうぉんうぉん泣き叫んでスッキリできるようなものならいいのだがそうもいかないようで、それだけで涙が出てくるわけでもなく、ただ締め付けられるような体の苦しみだったり地面がカピカピに乾燥してひび割れてるような土地に突然放り出されたような寄る辺なさだったりが突然やってくる。

 

Googleで「さびしい」「淋しい」で検索すると言葉の意味や使い分けに関するページが上の方に表示されるが、「寂しい」で検索すると急にさびしい時の対処法だのひとり暮らしはさびしい、恋人がいてもさびしいなどという情報が出てくる。検索結果の件数も桁が違って、「さびしい」だと約 2,430,000 件、「淋しい」だと約 3,620,000 件、「寂しい」は約 30,900,000 件であった。

30万を超える検索結果の中には実用的なさびしさへの対処法もあれば私のようにさびしい、さびしいといっているだけというのもあるだろうが、とりあえず膨大な情報を取捨選択する気力もないのでさびしさを打ち消そうと救いを求めるのは諦めた。

さびし‐い
【寂しい・淋しい】
 
  1. 《形》
    活気を失い、満ち足りない。
    • 親しい人が居ないなどで、心が満たされず物悲しい。「母に死なれて―」。ほしいものが得られず、物足りない。
       「タバコが切れて口が―」
    • (ひっそりとして)心細く感じられるほどの状態だ。にぎやかでない。
       「―裏町」

検索された意味の通り、今の私には活力がなく満ち足りていないのだ。

退職し、職場から離れて2か月近く経つので、仕事を失って拠りどころをなくした不安からきているのでは思っていたが、その割に職場のことはもうほとんど思い出さないし正直勤労意欲があまりない。働いている時は多少無茶な要求をされてもそれをこなすのが自分の価値を高めることだと信じていたし、それによって人に頼られることで安心して居場所を得られている感覚があった。

ほぼ日刊イトイ新聞に「いつもさみしい問題。」という記事があって、私は「いつもさみしい」わけではないのだが、「『さみしい』時に素直に人に頼ることができない」「誰か頼ってくれる人がいなければ駄目」という意見に激しく同意した。

「『いつもさみしい』は、人に頼らず、
 ひとりが好きなほど、感じやすい。」

こういう心理が生まれる背景に、
「自立」を尊ぶ風潮が
あるように思われるのです。
……そうなると、
つねに自分に「自立」を強いることになり、
それが、孤立を求める生き方につながって、
自分で自分を苦しめることになっちまいます。

https://www.1101.com/samishii/2004-08-26.html

自立と孤立は別物だが「何物にも頼らないこと=自立」と思い込むと孤立への道を深めてしまう。でも誰かに頼らないようにするから、客観的な目線がなくて自分が孤立していっているのにも気づきにくい。働いていたり家庭があったりすれば社会的にはしっかり自立して生きているように感じられるから、自立と孤立が曖昧になっているひともいるのではなかろうか。というか私がそうではないか。

あまりにもさびしいので友人に連絡を取ってみようとした時もあったが、さびしさを理由に人に頼るなど自立していない証であり、相手の迷惑でしかないからいかんと思ったのだ。相手をさびしさの捌け口にするのはよくないが、苦しい時こそ信頼できる友人を頼っていいのではないかと思うのだが、己が自立していることを前提に考えると人を頼ること自体が「何物にも頼らないこと=自立」という図式を壊してしまうので行動できない。

まあそれ以前に、今の私ではさびしさを言語化できず家でぬおおと唸っているだけの状態なので誰ともまともに話せず、無理に連絡などしてもコミュニケーションが取れないだろう。よく悩んだ時、苦しい時など、人と話すと楽になると言うが自分がある程度冷静に話せる状態でなければ相手を困らせるのはもちろん、自分も理解を得られず余計につらくなる可能性が高いから、やみくもに人に話さなくともよい。  

 

それにしたって湧き上がるさびしさが止まるところを知らないので、気になっていた本を読んだ。 

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

読んでいて思ったのが、親との関係を自分の中で清算しないと自己認識や行動、対人関係で同じ苦しみを味わい続けるだろうということと、いくらさびしくても私は風俗にはいかないだろうということだった。 

web連載の『一人交換日記』でも特に描かれているが、行動や判断の基準が親に依存していると抑圧とかさびしさとか自尊感情の低下とか、とにかく自分の人生が窮屈極まりないものになるのだ。親との関係を改善できればよいが「話せばわかる」なんて対応がまかり通るのは稀なことで、親がどうなろうが子どもである自分が区切りをつけるしかない。

comic.pixiv.net

作者がレズビアン風俗に行くのも親からの抑圧から抜け出すための通過儀礼のようにみえたが、しかし初対面のきれいなおねえさんに自分の身を任せるとはものすごいことではないかと思った。「19歳の頃、レジの中からもう誰でもいい、2秒でも1秒でもいいから抱きしめてほしいと思っていた」(p49)というくだりを読んで、「抱きしめてほしい」欲求はよくわかるのだが「誰でもいい」とまでは思わなかったのだ。私はいくらさびしくても得体のしれないひとに己の身を任せることはできない、というか非常に強い恐怖につながる。

読み始めた時は、作者と同世代で考え方にも近いものを感じていたこともあり「ああ、よくわかる」と思っていたのだが、徐々に妙なズレを感ずるようになっていた。なんというか、作者は人に対して無防備というか人を信じているひとなんだろうなという気がした。就職活動中でもマンガを描くのを頑張りたいと面接官に言えてしまうし、誰でもいいから抱きしめてほしいと見知らぬ人を見つめながら思えるし、恋愛したことなくとも風俗に行って体を預けてしまう。

どちらかというと私はひとを恐怖の対象としてみてしまうことの方が多く「誰からも拒絶される」ことを前提に行動しているので、作者が「どこに行っても誰かに受け入れてもらえる幸せなひと」に見えてしまった。実際そういうわけではないのだろうが、私自身がいかにひとを避け、自立ではなく孤立の道をひた走っているかまざまざと見せつけられたように思う。

 

親子関係については思うところあって『毒になる親 一生苦しむ子供』(スーザン・フォワード/講談社+α文庫)を読んでいるのだが、読み進めるのが苦しい。私は子どもの頃身体的な虐待を受けたり、突然親がいなくなってしまったりするようなことはなかったが、親との関係がうまく築けなかったのは確かだ。本書には親に対する考え方についてチェックリストが載っているが、読み進めるごとに今のさびしさの出どころを抉られるような感覚をおぼえる。

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

 

 

ずっと腹で渦巻いている感情を何とかしたくて、どこかの掲示板とかはてな匿名ダイアリーとか何でもいいから吐き出してしまおうかと思っていたのだが、吐き出そうにも言葉にすることすらできない状態が続いていた。こういう感情的なことを書くのは相応しくないとどこかで制限をつけていたが、自由に発言するのが憚られるという意識がさらに己を苦しめることになる気がしたので書いた。