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「スープが冷めないうちに」【第14回】短編小説の集い

素敵な企画をお見かけしたので、初参加させていただきます。

ブログ自体始めてから日が浅く、創作物を公開することも不慣れで緊張しております。小説の中身やブログ運営に関して、何かございましたらご指摘いただけると嬉しいです。

どうぞよろしくお願いいたします。

novelcluster.hatenablog.jp

 あの丘に住む奥さんは、たいそう料理が上手です。毎日市場へ出かけては旬の魚や脂ののった肉、うみたての卵を買ってきます。家で育てている野菜やハーブと一緒に、質素ながらも飽きのこない、目にも舌にもおいしい食事を作るのです。

今晩はあたたかいオレンジ色がつまったかぼちゃを裏ごししたスープ、玉ねぎやにんじん、キャベツを蒸したサラダ、脂がはぜる鶏のローストにハーブとベリーのソースを添えて、朝焼いたカンパーニュを並べて食卓のできあがりです。キッチンには昼間に焼いたアップルパイの香りがかすかに残っています。甘くかがやく蜜をたたえたパイは、今はカウンターでひっそりとガラスカバーに覆われていますが、奥さんが慎重に淹れた紅茶と一緒に、夕食の後ひと切れやってくるのです。丘のふもとはいつも奥さんが作る料理のおいしい匂いでいっぱいだったので、あの家の旦那さんはほんとうに恵まれているとご近所さんたちは羨みました。

しかし今日も、夕食はとうにできあがっているのに食卓に座っているのは奥さんひとりでした。奥さんは何度も2階の旦那さんに声をかけますが、いつもの言葉が返ってきます。
「今いいところなんだ、邪魔しないでくれ」
旦那さんは大学の先生で、どこへ行くにも本を持ち歩き、読んだり書いたりしているのです。一緒に暮らしはじめたころは、ふたりで食卓を囲んで旬の料理を楽しみ、今日のできごとや何でもないことを話していました。奥さんはそうして過ごす時間をとても大切に思っていましたが、旦那さんの仕事が忙しくなるにつれ、一緒に食事をする日がずいぶん減ってしまいました。
旦那さんが同じことしか言わないので、奥さんはこっそり部屋を覗いたことがあります。もしかして、本に夢中になっているふりをしてよその女を連れ込んでいるんじゃないかしら、そんな不安を抱えて鍵のかかっていないドアを開くと、積み上げられた本の中に旦那さんが倒れていました。旦那さんの身を案じ奥さんが慌てて駆け寄ると、聞きなれた声がします。
「今いいところなんだ、邪魔しないでくれ」
横に倒れたままページをめくる指だけを動かしている旦那さんに夕食を運んで、奥さんはひとり、冷めてしまった食事をとるのです。

最近論文を書き上げる作業が難航しているのか、運んだ食事にさえ手を付けていないことが心配で、奥さんは旦那さんにもう一度声をかけます。
「あなた、ちゃんと下で食事しましょうよ。体に悪いわ」
「大丈夫だよ、大学では学食で適当に食べているし、今は早くこの本の内容をのみこみたいんだ」
本は冷めないのだから先にかぼちゃのスープをひとくち飲んでくれたらいいのに、そう思いながら奥さんは夕食を旦那さんの部屋のスツールに置きました。なにせ机も床も本でいっぱいな部屋なのです。一心不乱に本を読み、書き物をしている旦那さんの背中に目をやると、ふと周りの本も目に入ってきました。
大学の先生が読むのだからずいぶん難しい本ばかりだろうと奥さんは今まで気にかけてこなかったのですが、ちんぷんかんぷんな本に混ざって最近のベストセラー小説や旅のエッセイ、マンガ本まで積み上げられていることに気づきました。その中に、それはおいしそうなハムエッグトーストが出てくる、子供のころ読んだ物語がありました。男の子が女の子に出会って、追っ手から逃げながら冒険の旅をするのです。奥さんは懐かしくなって、こっそり本を拝借しました。読んでいるうちに子どものころのわくわくした気持ちがよみがえってきて、翌朝、本の中のメニューそっくりの朝食を作ってみました。
ハムエッグは半熟になりすぎず、かといって水分を飛ばしすぎないように慎重に蒸し焼きにします。ハムの塩気をふくんだ玉子のふっくらした香りが漂い、食パンが網の上でかりかりに焼けたころ、旦那さんが下りてきました。普段はコーヒー1杯で慌てて出かけてしまうのに、今日はすっかり朝食を平らげて、寝不足の顔をくしゃくしゃにして言うのです。
「これ、あの本の朝食だろう、今日は冒険にでも行けそうだよ」
行ってきますのキスもいつもより長くて、奥さんはずいぶん照れてしまったのですが、一緒に食卓を囲んでいたあのころに戻るための道しるべを見つけたと思い、旦那さんがいない間にこっそり本を読むようになりました。本の中の食べ物は、レシピまできちんと載っているものから、とうてい手に入らない不思議な材料で作られているものまで様々です。挿絵も写真もないものは一所懸命想像して、夕食には彼を驚かせてやろう、一緒に食事をしようと台所へ向かいました。
本の中のメニューに旦那さんは喜んで、奥さんの料理の腕前を褒め、どの本のどのエピソードで出てきたものか話すようになりました。相変わらず旦那さんは仕事に追われていましたが、ふたりで食卓を囲む日は前よりも増え、飲み物の描写はなかったけれどきっとこのワインが合うとか、隠し味がもっと必要なんじゃないかとか言いながら、夕食の時間を楽しく過ごしていました。

そのうち、難渋していた論文がやっと発表できることになり、やっと落ち着いて食事をする時間が取れそうだと、奥さんは張り切ってメニューを考えはじめました。一方旦那さんは、いつも引きこもって家のことは奥さんに任せきりだったこと、できたての食事を一緒にとらなかった日のことを反省しました。そこで、自分なりに考えて作った昼食を奥さんにふるまうことにしたのです。
本ばかり読んでいて、せっかく作ってくれたものを食べなかった日もあったけれど、あたたかいスープと季節の野菜、新鮮な魚や肉を選んで奥さんが食事を作ってくれていたことは知っています。旦那さんは市場へ出かけ、庭のハーブを積み、質素ながらも飽きのこない、目にも舌にもおいしい食事を目指してキッチンに立ちました。
今日の昼食は玉ねぎのコンソメスープ、ハーブやリーフにきざんだゆで卵をあえたサラダ、今朝釣れたばかりの魚を丸ごと使った潮の香りがするパエリアです。特にスープは、玉ねぎの甘みがたっぷり溶けこんだ自信作でした。いつもは奥さんに任せきりのお茶の準備も万端です。
旦那さんはスープが冷めないうちに奥さんと食事がしたくて2階に駆けあがりました。おいしいものを食べてほしい、たくさん話がしたいと思って、珍しく部屋にこもっている奥さんに声をかけると、聞きなれた言葉が返ってきました。
「今いいところなのよ、邪魔しないで、今は早くこの本のレシピをのみこみたいの」