外面とお蕎麦

お昼ごはんにお茶屋さんでざる蕎麦セットを注文した。

この季節にざる蕎麦もどうかと少し思ったけれど、食べたいものを食べようと思ったのだ。

ちょうどお客さんが誰もおらず、豪快に蕎麦を啜ってやろうと目論んでいた。普段あまり蕎麦を食べないから久々のご馳走でもある。温かい緑茶に茶葉のおひたしが付いていて、いよいよ蕎麦をと手繰るも、ちっとも啜れない。

外だから遠慮したわけではなく、啜り方がわからなくなっていた。お茶屋さんの静寂を破らずよかったと思う反面、いろんな我慢が積み重なってなくしものをした気になった。

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最近ブログを書くのが怖いと思って、画面を開いても何も書けずにいた。

集中力が続かず文章を組み立てられないのもそうだが、面白くもないことをブログに書いてどうすると思うと全く動けなくなってしまう。今まで書いてた記事は面白かったのかと言うと素直に首を縦にはふれないが、自分に対するダメ出しや禁止事項が強くなりすぎて自由にできなかった。

別段気にするほどでもないことまで過剰に精査して、人目に触れた時評価されるかどうかを基準に物事を考えてしまっている。

 

会社を辞めて、医師から休養を勧められ、私自身も勤労意欲がなくて毎日ぼんやりと過ごすことが増えた。早く再就職して収入を得なければとか、せっかく休みなのだから有意義に過ごそうとか考えていた時期もあったが、服薬して落ち着いてきた程度だしダメでもいいじゃないかと最近は思えていたはずだった。それでもまだ根深く自分の行動を監視して制御する考えが強い。

職場にいた約5年間、役割が固まっていくにつれ外面を気にするようになっていた。常に求められている役割をこなし、自分なりに理想的な形で職務を全うしようとしていたのだけれど、そこにある枠組みは頑強で、自由で素直な考えは嵌め込めなかった。

そんな頑強な枠組みを作ったのは他でもない自分なのに、誰かに強要された風を装って余計にがんじがらめになり心身の健康を保てなくなっていった。

外面のために清く正しくお行儀のいいひとになろうとして、音を立てて食事なんてとんでもないとお蕎麦を啜ることさえできなくなってしまった気がする。そういえば年越し蕎麦も啜ってなかったように思う。

 

最近やっと、ちょっとゆっくりできるとか、今は自由なんだなとか思う時がある。今まで禁じてきた外食をするようになったし、芝居や映画に行きたいと意欲が湧いてきている。

未だに外面が気になって行動に移せないことはたくさんあるけれど、先日ハンナ・アーレントを読んで、少しずつでも人前に姿を見せたいと思うようになった。

他者を彼自身の存在に関するこうした明確な自覚へともたらすこと、つまり、他者を「神のもとへもたらすこと」こそ、キリスト信徒が自分自身の過去の罪に基づいて引き受けるに至った隣人に対する責務である。

[……]したがって孤独への逃避は、他者から回心の可能性を奪ってしまうが故に、罪に他ならない。

-『アウグスティヌスの愛の概念』p159(ハンナ・アーレント、千葉眞訳/みすず書房)

キリスト教に関する引用ではあるが、ひきこもっている限り届くはずの言葉や気持ちは届かず、結果的に誰かの可能性を奪うことにつながるのは宗教に限った話ではないと思う。誰かの可能性になんてなれるわけないだろと一蹴するのは簡単だが、大科学実験みたいに、やってみなくちゃわからないのだ。

まずは私を救ってくれよと思うけれど、それにしたって孤独へ逃げている限り他者からの救いの手は受け取れない。 

ひきこもってないでブログでもTwitterでもやってたら誰かが拾ってくれるかもよ、くらいに捉えて、ぼちぼち外に出てみていいんじゃないかと思っている。

 

きっとこれからも外面を気にして無駄にお行儀良くしたり動かなくなったりすることもあるけれど、今までのような窮屈な枠組みはもう作るまい。

お蕎麦を啜る練習をしなければと思う。

アウグスティヌスの愛の概念 (始まりの本)

アウグスティヌスの愛の概念 (始まりの本)