私を私たらしめるのは誰か/中村うさぎ『他者という病』

私は死ぬのと同じくらいか、それ以上に怖いと思っていることがあるのですが、まさにその恐怖を書いている本を読んだので感想を残しておこうと思います。 

他者という病

他者という病

 

本書は著者が2013年に突然の病によって入院したことをはじめに、周囲の人との関わりや自意識を通して生きるとはどういうことなのか考察しています。

忘れられるのが怖い

日頃からありもしない空想を膨らませては勝手に不安がっている私ですが、とても怖いと思うことのひとつに「みんなに忘れられてしまう(私を知るひとが誰もいない)時、私は自分を保てるのか」があります。

家族や友人がみんないなくなって天涯孤独になったり、記憶喪失や認知症によって「どちら様ですか?」と言われてしまったりした時のことを考えると、私は私として生きていけるのだろうかと足元が崩れるような不安に駆られるのです。

私が「私」と言う時、そのには二種類の「私」が混在しているように思う。

ひとつは「他者から見られている私」という「客体としての私」で、もうひとつはデカルト言うところの「われ思う、ゆえに我あり」的な「主体としての私」である。「客体としての私」は「自意識」に支配されており、「主体としての私」は「自我」そのものだ。

 

―中村うさぎ『他者という病』p184

「主体としての私」がいるうえで「客体としての私」も形成しないことには、周りに何もない砂漠をさまよいながら精神に異常をきたしてしまいそうだと私は恐怖します。そして「客体としての私」を形成するためには他者の存在が不可欠です。

例えば卒業アルバムを見て「この人誰だっけ?」と思われた時点で「客体としての私」は消滅してしまいます。ジャングルや無人島でサバイバル生活を送るのであれば、最初から他者は存在しないものとして「主体としての私」全開で生きていけばよいのでしょうが、誰からも忘れ去られてそれでも社会の中で生きていくのは、自我がただ存在している幽霊のように思えてなりません。 

「孤独とはね、いてもいなくても同じということだよ。存在の否定だ。あり方の否定だ。それはね――とても悲しい。一人でいるのと独りであるのとは全然違うことなのだ。共に遊べる友達が欲しい。一緒にいられる親友が欲しい。愛してくれる恋人が欲しい。競い合えるライバルが欲しい。分かってくれる理解者が欲しいし、助けてくれる指導者が欲しい。独りは、嫌だ」

 

―西尾維新*1『零崎双識の人間試験』p85

 社会の中に存在している「私」はそれ一個のものではなくて必ず他者から見た「私」でもあるはずです。他者の目を通さない「私」はいかに行動しようが表現しようが通りすがりのモブでしかなく、いてもいなくても同じになってしまいます。そして私自身も、いつの間にか他者のことをどんどん忘れ去ってしまう時が来ます。このことを思うたびに、言いようのない苦しさを感じます。

闘い続けるほかに道はない

「客体としての私」を失う恐怖について、本書に明確な解決方法は提示されていません。私を私たらしめるのはなんなのか、忘れられ忘れゆく恐怖にどう対処すればいいのか、そこに答えはなく、ただ己を突き通すために闘い続けるしか術を持たないのです。

本書からは、著者の言葉に対する強い信念が全編を通して伝わってきます。本気の言葉には力がある、言葉が届かなかった人たちもいるけれど、届いた人もいるのだから「言葉」を諦めない、と。

「主体としての私」を正直に書き、他者の目から「私」を見極めてもらうことで、「私」についての糸口があらわれてきます。誤解されたり自分の書いたことがおかしかったりという結果になってしまったとしても、言葉を通じて誰かとつながることでしか、きっと私を見出せないのです。

恐怖も苦しみも自分ひとりで受けなければならないけれど、同じようにひとりで闘う誰かがいるということが唯一、私は独りじゃないという意識を持たせてくれます。

書いてて自分でもわからなくなってきてしまいましたが、のたうちまわってでも言葉を手放さずに書いていきたいと思うのです。幸か不幸かブログという他者の目があるツールで文章を書く以上、どんな反応であれ真摯に向き合わなければ、私の恐怖を和らげることはできないのでしょうから。

*1:同じ著者の「忘却探偵シリーズ」の掟上今日子は他者から忘れられた「私」ではなく、眠るたびに他者を忘れる「私」ですが、今日子さんは「客体としての私」についてかなり無頓着な印象があります