ただの日記/2月13日
今日は博多座の坂東玉三郎特別舞踊公演に行ったのだが、スーパー歌舞伎Ⅱワンピース博多座公演のチケット発売日でもあった。朝からチケット確保に必死になり、何とかチケットが取れた頃にはずっと降っていたはずの雨がいつの間にか止み晴れ間が見えた。
博多座へ行く前に、キャナルシティ博多の無印良品へ初めて足を運ぶ。Café&Meal MUJIで軽めの昼食。店舗入り口のプレートを取って座席を確保してから注文する仕組みだそうで、「田」とか「茎」とか書いてあるプレートから「種」を選んだ。
2月に入ってから心身の調子が崩れはじめ、ブログを更新できない日が増えた。自分の中にもっとよい種を増やしたいし芽が出るようによく世話をしなくてはならない。自分の世話もできないのに、誰かの力になろうとするのは無茶が過ぎる。気づかぬうちにそんな無茶を繰り返そうとしていて身も心もボロボロになってしまう。
キャナルシティ博多の無印良品は本も多く取り揃えており、1日中見て回りたいほどだった。今度ゆっくり過ごしてみたい。博多周辺の楽しみが増えた。
博多座は満員御礼。3階席最後列だったがちょうど中央あたりの席で全体がよく見えた。
「船弁慶」では坂東玉三郎が静御前と平知盛の霊の2役、弁慶に中村獅童、義経に中村児太郎。「正札附根元草摺」は曽我五郎を中村獅童、舞鶴が中村児太郎。「二人藤娘」に坂東玉三郎と中村児太郎。中村児太郎、3演目とも出演していてすごい。
最後の「二人藤娘」で二人の藤の精が花道に引っ込んだ後、拍手が鳴り止まず大向こうも響き、異例のカーテンコール。藤娘に出ていなかった中村獅童まで奥から出てきて、2度もカーテンが開いた。1階席はスタンディングオベーション、妙に興奮してしまい拍手している自分の額に汗が浮かんでいた。
どうも舞踊というと何を表現しているのかわからない・何を言っているのかわからないと敬遠しがちであったが、今回の公演、特に「二人藤娘」はただ美しかった。意味や理由を考えなくても、素直にきれいだと思うだけでいいのだ。
それにしても隣り合うポスターの落差よ。4月の公演も楽しみだ。
晴れ間が見えたと思ったら博多座を出ると激しい雨に見舞われた。地下道を通りながらできるだけ雨を避けて天神方面へ。イムズの三菱地所アルティアムで気になっていた美術展に立ち寄った。
鉛筆画、アクリル画、撮影技法を駆使した作品を観ると、もっと自由に表現していいのだと思える。気づいていない縛りをたくさん自分にかけている。言葉遊びも面白く、パングラムというものを初めて知った。
ソラリアプラザ地下のDEAN & DELUCAへ初めて行き店内のかがやきぶりに圧倒される。朝からチケット購入に奮闘し無印良品で刺激を受け歌舞伎を観て昂ぶったうえに美術展まで行ってしまったので、これ以上きらびやかな所にいたら疲れ果てると思い退散。おとなしく帰って来た。
今日受けた刺激を明日からよい方向に進むための糧にしたい。
モネ展へ行ってきました
福岡市美術館のモネ展に行ってきました。2月4日から九州初公開で「印象、日の出」が展示されていたこともあってか、美術館の外まで行列が続く盛況ぶりでした。
モネというと睡蓮ばっかり描いていたひとくらいの知識しかなかったのですが、肖像画や風景画、鉛筆による風刺画の展示もあり、10代後半から最晩年までの画業をたどれる展示になっていました。
「印象、日の出」は50×65cmと思っていたより小さく、朝日が昇る港の柔らかな空気が感じられる絵でした。展示室ではじっくり見たいひとは後方から、近くで見たいひとは絵の目前を歩きながら鑑賞するようにアナウンスされていたので、ゆっくり見るには平日に行った方がよいのではと思います。
睡蓮の絵だけで8枚展示されており、庭や植物画も多く見られましたが、モネは晩年白内障を患っていたせいか、何が描いてあるのかわからないような作品もいくつかありました。
印象派というと柔らかい色彩と淡い空気感をイメージしていましたが、動き続ける植物や水面の一瞬を捉えようとした絵は荒々しい筆致で何も見逃すまいと塗り重ねられた執念にも見えます。いろいろな睡蓮が見られたので満足です。
モネ展のあとは、近現代と古美術系の常設展へ。福岡市美術館はポール・デルヴォーの「夜の通り(散歩する女たちと学者)」を所蔵しているはずなのですが、今回は展示されてなくて残念でした。動物絵画を集めた企画で狐の剥製と一緒に長谷川潔の「仮装したる狐」が展示されていて思わぬ喜び。でもひとの多さに圧倒されて早々に退散しました。
気持ちの良い晴天で、美術館横の大濠公園では散歩やランニングをするひとでいっぱいでした。このまま暖かくなっていってほしいものです。
大濠公園そばには福岡城址があり、堀には夏に蓮の花が咲きますが、今の時期は緑はなく水面は真っ暗でした。
独り身には過ぎたるりんご
ほんのりと甘いりんごの香りが漂う中で書いています。
タカノフーズが毎年秋から冬にかけて行っている懸賞に応募して、青森産のサンふじりんご約10Kgに当選しました。宅配便のひとが息を切らして運んできてくれた段ボールには40個のりんごが詰まっています。
毎日納豆を食べていて、手に入りやすいタカノフーズのおかめ納豆が食卓に並ぶことが多いです。おかめ納豆といえば「うまかたれ」がついている赤いパッケージのものか、「糸の力」という粘りの強いものだと思っていたのですが、九州限定商品のようです。納豆のバリエーションがすごい。
余談ですが東南アジアから中国にかけての納豆文化も日本とはまた違って、糸を引く豆粒タイプより、乾燥させたせんべい状のものやひきわりにしてミンチのように使うタイプの方が多いらしいです。
タカノフーズの懸賞には立派な肉やカニのコースもありますが、りんご一択で応募しつづけて早3年、ついに我が家にりんごがやってきました。身に余るほどのりんごが手に入ってありがたいです。タカノフーズに足を向けて寝られません。今やちょっとしたりんご長者です。しばらくは毎朝のりんごに不自由しません。
とはいえ毎日1個食べ続けても来月半ばまで残るので、傷まないうちに加工しておきたいと思います。バレンタインはりんご祭りになるかもしれない……。
ただの日記/2月7日
減っていた薬がまた増えて眠気がひどい。眠れないよりはましだと思うことにする。先週あたりから治まらない頭痛がストレスによる緊張性頭痛と言われたので、PCに向かう時間も短めにしないといけない。健康を損なうと、楽しみも減っていくものだ。はやく健康になりたい。
昨日今日はひたすら眠ったりヨガをしたり本を読んだり。
『罪と罰』未読の4名が冒頭と最後の1ページから、『罪と罰』がどんな物語なのか推理していく対談本。途中、登場人物紹介や各部から適当に1ページを抜き出して読み推理を進めていくのだが、三浦しをんの考察がはじけていた。作品が書かれた年やドストエフスキーの年表から作品の時代背景を推察し、「もし自分が『罪と罰』を書くとして、5部構成のどこで老婆を殺すか」という小説家ならではの推理もあり、当たらずも遠からずな内容だった。1ページの文章から読み取るイメージが自由で広がりがあって、素直に一気に読んでしまうのではなく細切れに読んで想像を膨らませる読み方も楽しそうだと思った。本について誰かと語る機会がほとんどないので、こういう対談を読むとうらやましくなる。
『罪と罰』を読んで時に暴走する対談をにやにやしながら読むもよし、読まずに4人と一緒になってストーリーを推理するもよしだと思う。
なお、読まずに推理したあと、実際に『罪と罰』を読んでからの対談も載っている。スヴィドリガイロフが人気で、スピンオフが読みたいとあったがそういえば三田誠広がそんな本出していたなあと思い出した。スド(名前が長いので、対談中ではスド呼ばわりされていた)主役の『罪と罰』ありますよ! と思わず言いたくなった。
もっと書いたり読んだりしたいのに、頭がよく働いていない感じがする。まずは体をととのえる、よく休む。
ひとりバレンタインの準備をしたい
記事を書く画面の左上に(お題)バレンタインデーと出ているのを見て、今年は人様に何か用意する必要は全くないことに気づきました。昨年までは職場のひとや恋人に何かしらお菓子を準備していましたが、今年のバレンタインデーは会社は休みだし独り身だし休日に会ってまでプレゼントをしたいひともいないし、大変フリーダムです。書いていて寂しくなってくるだろうかと思っていましたが、今のところそんな気分は微塵もないようです。ひとり楽しすぎるぜー、という別種の寂しさを醸し始めているのかもしれません。
だいたいイベントに乗っかる必要自体ありませんが、真の目的は誰かにプレゼントするのに便乗して自分が甘いものを食べたいというさもしい根性に他ならないのです。キリスト教司祭ウァレンティヌスのことはさておき、日光も少なく寒くて暗い冬は甘いものが欲しくなります。デパートに行けば立派なチョコレートがびっくりするような値段で並んでいますが、小さくて高級感のあるものより多少出来栄えは荒くてもたっぷり食べてしまいたい欲を満たしてくれるのは、結局のところ自分で作るのが手っ取り早いのです。
チョコレートを食べたいのではない、甘いものが食べたいのだ(チョコレートもあれば食べるけど)。
毎年、チーズケーキが食べたい時に読み返す本。なぜか、社会学者の古市憲寿さんや落語家の柳家三三さん、作家の橋本紡さんら7人の男性が、料理家の津田陽子さんに作り方を教わりながらお菓子作りをする構成の料理本です。工程ごとに写真で説明がされていてとてもわかりやすく、料理中の津田さんと男性陣の会話やコラムも楽しめます。
カスタードソースを作って、クリームチーズ、生クリームとあわせて冷やし固めるタイプのチーズケーキが、初めて作ってから好物になり年に1度は作ります。高いバターを用意する必要もなく、生クリームの泡立てが上手にできたらあとはきっと大丈夫と思えるレシピです。
他にも、フォンダンショコラやプリン、フィナンシェ、キャラメルムースなど電子レンジで簡単に作れるものから焼き型が必要になるものまで10以上のレシピが載っています。「男子のためのお菓子作りの本」と表紙に思いっきり書いてますが、もちろん女性も使えます。
パウンドケーキ、クッキー、ビスコッティと食欲に任せてお菓子ばかり作っている時期がありました。最近気力が湧かず、台所に立つのも億劫な時がありますが、今年はひとりバレンタインのためにお菓子作りの準備を始めようかなと思っています。
うまくいくんだかどうだかわからないカップルの行く末や相手とのつながりを確かめるかの如くお菓子を交換し合うグループを尻目に、ひとり自由に甘いものを食べるのです。
疲れた、よりも、くたびれた、と言いたい
長い一日を耐えて、ああ疲れたと言うところをああくたびれたと言いたいと思った。
疲労していることに変わりはないのだけれど、「疲れた」というと心身を酷使して元気がなくなったのに対して、「くたびれた」というと同じ元気がないのでも頭や体をよく使ったのだという感じが強いように思う。単純に体に負担がかかっていると感じるよりも、たくさん活動した充足感を得られる方が気分を持ち直しやすい。
くたびれるという言葉は年月を感じさせる。年を重ねてきたもの、古くなったものに対しても使われるが、決してネガティブな意味だけで使われはしないと思う。いい具合にくたびれて、使い勝手のいいもの、味のあるものになることだってある。
ただ疲れ果ててしまうより、くたびれても歳を重ねた分だけ自分の中に蓄えを増やしていきたい。
ただの日記/2月3日
案の定2月初めから心身に不調をきたしている。仕事には行けたものの、途中で頭痛がひどくなり医務室へ行ったのだが空調が効いておらず、電気敷き毛布の微妙な温もりと共に小一時間震えながら横になっていた。仕事でずっとPCを使っているせいか、画面を見ること自体億劫に感じる時がある。ブログを書こうにも頭が朦朧として結局2日の間が空いた。
iPhoneを持って1年程になると思い当時のカレンダーを何気なく眺めていると、ちょうど昨年2月頭に体調不良で早退や欠勤をしていた。1年経っても何ら変わっておらず、がっかりする。今月は体調を最優先する分、仕事を休むことなく続けたい。意地でも休まないように努力するというより、翌日に響かないように時間と仕事量を抑えて無理のない働き方を考えたほうがいい。今抱えている不調を宥められたら、どんど焼きにも行ったしこれ以上病気にはなるまいと思うことにする。
最近、自分が何をしたいのかわからなくなってきていると思う。大切なものは何か、自分の目的は何か、曖昧になってしまっている。よく考えるための時間を作らなくてはいけない。内面の安定を望んでいるものの、そのためにはある程度の経済力がないと安心して生活できず、収入を得る手段が必要になるのだがその活動によって内面の安定が保てなくなってしまっては本末転倒だと思う。こうした考え方自体が強迫観念的に自分を苦しめているのかもしれない気もする。誰かの真似をして生きることはたぶんできないから、少しずつでも自分が変わっていくしかない。
ひとりでやるにはもったいないし寂しいので豆まきはしないが、節分なのでいわしと豆を食べた。いわしのせいで台所が魚臭い。焼いた煙で鬼を追い払うそうなので気にしないことにする。豆が好きなのでたくさん食べたくなるが、とりあえず年の数以上は食べないよう我慢した。恵方巻は贅沢品の部類に入るので普段通りの地味な自炊で済ますのである。食欲は出てきているので立春を機に持ち直したい。