必要とされないとしても、不要なわけじゃない

なんだか逆のことを言っているような記事ですが、どちらにも共感したので書き残しておきます。

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誰にも必要とされなくたって構わないけれど、やっぱり必要とされたい

誰かと過ごす時、仕事をしている時、「自分は必要とされているか」をいつも考えています。ここにいるのは自分じゃなくてもいいのではないか、何の役にも立っていないのではないか……とひとりで考え込んで勝手に落ち込んだりもしました。

例えば仕事を選ぶ際などに、「誰かに喜ばれたい」とか「誰かの役に立ちたい」といったことを言う人がいる。これはこれで非常に立派なことだと思うが、「人間は、絶対にどこかで誰かの役に立たないといけない」ということはない。「社会貢献」は、できたらいいと思うが、これも必須ではない。別に、誰にも必要とされなくたって、人間は生きていて構わないのだ。

誰にも必要とされなくたって、人間は生きていて構わない

誰かの役に立ったり、社会貢献できたりしたらいいけれど、できないからダメだ、というわけではないんですよね。頭ではそう思っていても、仕事や恋愛や日常生活において、やっぱり必要とされる人物でないといけないと感じている自分もいます。

結局、いなくなったら困るなっていう存在になりたいんです。たとえばいまなら、「くらしのきほん」がなくなったら困るよね、と。誰かに好きになってもらえるように、世の中に必要とされたいから、自分から一生懸命、世の中のことをすべて愛する努力をしているんですね。

世の中に必要とされたいあなたへ――松浦弥太郎が考える「愛される人間」のきほん

「いなくなったら困る」 存在は、きっと「いてもいなくても同じ」とは対極にあって、常に誰かとつながっていられるよろこびや安心感を生み出します。必要とされるということを極度に求めてしまうのは、孤独ではない証明がほしいのかもしれないと思いました。

ひとりでも生きていける、でも寂しい、心細い、勝手かもしれないという気持ちが、いつしか誰かに必要とされなければダメなんだと自分を縛る考えに変わってしまう。そんな思い込みをひとりで抱え続けて、必要とされるかどうかで自分の価値を決めてしまっていたのかなと感じました。

不要な人間なんていないと思いたい

「誰か」に必要とされるかどうか、受動的な基準をもとに自分をはかろうとすると、正しい判断が出来なくなってしまいます。判断自体は主体的に行うものだから、基準も自分自身に軸を置いて考えないとズレが生じると思うのです。

何より、「必要とされない=不要な存在」ではないということをふたつの記事を読んで強く感じました。

必要とされる・されないは二の次で、まずは生きていて構わないということ。必要とされたいという気持ちは自分の願望だから、叶うにこしたことはないけれど、叶わなくてもダメなわけではないこと。必要とされることはよりよく生きることにつながるのだろうけれど、そうでないからといって自分が不要な存在になるわけではないこと。

誰かのために一所懸命になって、自分を見失っては元も子もないのです。でも、誰かに必要とされたい、いなくなったら困る存在でありたい気持ちも持っています。

自分を見失わずに、誰かに必要とされるよう努力するバランスの取り方は難しく感じます。少しでもこの感覚を掴めるようになったら、寄る辺ない思いが和らぐのかなと思いました。