万歩計の代わりです/お題スロット「ポケモンGO」

会社を辞めて、涙をこらえて毎朝電車に乗る必要もなくなったと同時に、反動で外出そのものが嫌になりそう……と思っていたところに現れたポケモンGOは、今のところ私のひきこもり抑止の一端を担ってくれています。

ゲームしたい欲を満たしてくれる

ちょうど初代ポケモンが発売された時分に小学生だった世代なので、白黒のドット絵だったポケモンがカラーでなめらかに動いているだけで感動です。「ポケモンGO」というゲームとしてのシステムには賛否両論あるのでしょうが、戦わせたり強化したりするより淡々と集める方が好きだった身としては、ポイポイとボールを投げてポケモンゲットだぜとまた遊べるだけで結構満足です。

正直なところ、幼い頃からゲームというのは裕福な家庭の子どもが遊ぶもの、よそのお宅でちょっと触らせてもらう程度のものだと思っており「自分はゲームで遊べるような身分じゃない」と妙な後ろめたさを感じていました。そんな後ろめたさを唯一感じずに遊べるのがポケモンだったので、今ポケモンGOで遊べることで「子どもの頃、もっとゲームしてみたかった」欲が満たされているように思います。

あと、ゲームする気力はあるんだからもっと元気になっていけるはずだと無理矢理ポジティブになります。 

万歩計代わりになる

先日、かかりつけの病院で妙に脈が速いと言われて「公園を散歩して図書館に行ってきた直後だからだと思う」と告げると、「ポケモンか? ポケモンGOで遊ぶのか?」と明らかにポケモンを知らないであろう看護師さんに食いつかれたので「万歩計代わりにいいですよ」とお茶を濁しておきました。

ゲームと同じように、歩くとポケモンに遭遇するだけではなく「ポケモンのタマゴが孵化する」機能があるのがすごいと思っていて、私の場合図書館まで出かけると徒歩で2kmくらいなので、往復でタマゴのひとつやふたつはたいてい孵化します。iPhoneにも歩数カウント機能はついていますが「今日は〇km歩く」なんて意識するより、うろうろしてたらポケモンが産まれるかもしれないと思いながら出かける方が楽しいものです。

ゆっくり自転車で走るとかプラレールに乗せるとか移動距離を稼ぐ方法はいろいろなのでしょうが、地道に歩いた分だけポイントが溜まったりタマゴが孵化したりする、地味な感じが自分に合ってる気がします。 

男にも女にもなれる

すごく感動したのが「着替える」からスタイル変更で性別をいつでも変えられるところです。名前は1度しか変更できないようですが、スタイルチェンジでいつでも男にも女にもなれる自由。

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元のゲームで旅に出る主人公たちは10歳ちょっとの少年少女のはずですが、ポケモンGOは海外で制作されたからなのかユーザー層を意識しているのか、立派な美男美女に変身できて嬉しゅうございます。

ポケモンはもともと男の子の冒険物語だったし、後に男女それぞれの主人公が選択できるようになってからも、最初に性別を決めたらずっとそのままプレイしなければならなかった記憶があります。

madeingender.com

「あなたはどちら?」と後戻りできない選択を迫られるのではなくて、能動的に選び取っていける、途中で変えることもできる「スタイル」という表現が優しい。 

以下は女の子のスタイルをコロコロ変えていた後に通常画面へ戻った図です。見たことないスタイルの主人公がそこにいました。すぐに元の姿に戻りました。

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実は、ジムはいろんなひとが集っていそうだしグループ(チーム?)に加入しないといけないのが怖くて未だに行ってません。てくてく歩いてボールを投げてるだけでいいので、このままぼっちプレイにも優しいゲームであってほしいです。

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ヘンなニックネームをつけるのもポケモンの楽しみであります。自分ときどきこんなふうになるわ。

毎日苦しくとも、ブログくらいはちょっと楽しく書きたいなと思えるようになってきている。

 

お題「ポケモンGO」

20160824

5年近く勤めた会社を辞めた。有給休暇の都合でまだ籍は残っているが、自分を痛めつけてきた職場にもう行かなくていい安心感よりも、役立たずな己がついに露見して打ちのめされる感覚が日常を占めている。時々無性に寂しくなり、体に穴が空くような感覚に襲われる。

何らかの情報を受け取るのも発するのも怖く感じて、しばらくブログ更新どころか他のブログを読むのも憚られた。優しい言葉も厳しい意見も、うまく咀嚼できず自分を責める材料に変換して受け入れてしまう。手帳に日記をつけはしても、外側へ出ていくエネルギーはなかった。

 

とにかく不安感がひどく、瞑想だマインドフルネスだと本を読んでみたり内容を実践しようとしてみたりしたが「今ここ」にある自分なんてものに気づいた時こそ、自分だと信じていたものが消え去って私は壊れてしまうんじゃないかと強い恐怖に駆られ、余計落ち着かなくなってしまった。

職場での「かくあるべき姿」への執着が依然として残っていて、その姿を保てなくなったうえに職場自体から離れていったことから、自信を落伍者扱いしてしまっている。「かくあるべき姿」を失って、どこへ行けばいいのかわからないのだ。劣悪な職場からの脱出に成功して自由を手に入れたといってもいいのに、自分の中に拠りどころがなくて身動きが取れない。

 

せめて好きなことをしようとすると、時間があるのだからこの本を読まねばならないとか、1日1枚絵を描かなくてはいけないとか、自分で自分の楽しみを奪うような条件を付けてしまう。外出はできるのでなるべく歩くようにしているが、時間を惜しむように早足になる癖は抜けない。人ごみを通り抜けることにストレスを感じる。

そもそも通院していて薬を飲んでいる時点で健康体とはいえないのに、体は動くのだから活動しなくてはならぬと多少きつくても動き回り、動けなくなると甘えだと自分を責める。安静にしていたら、それはそれでだらけている状況を延々と責め続け、どうなるかわからない未来の心配をしてしまう。

 

少しずつ考え方を変えていこうとしているが、遡っていくと親にぶち当たってしまい閉口する。今までは職場や個人の能力の問題だと思っていたことが、大元をたどると親との関係によるものではないかと最近やっと気がついた。もう少し考えがまとまったら何らかの形に残しておこうと思う。

 

当面の目標は自分で自分の面倒を見ることだ。生活という意味だけでなく、衣類をととのえるとか、化粧をするとか、身体そのものに対するケアというか面倒見がすごくよくない。

今まで、自分を犠牲にすることで誰かの役に立っている意識がとても強かった。見た目ヨレヨレで仕事がんばってるんだから許してほしい、認めてほしいと思っていた。誰かにいいよと言ってもらわないと、自分を認められないのだ。

他者目線に頼らずに自分で自分の面倒を見ていかないと、何度でも同じことを繰り返すだろう。きっと自分への優しさが足りていない。

休職を繰り返すくらいなら、そんな職場からは離れてしまおう

4月、5月は休職していました。昨年9月末から11月末に休職したのち、職場復帰してから半年も経たずに再び出社できなくなりました。医師からは、うつ状態に陥ると休職を繰り返しても不思議はないと言われていたので、半分は仕方のないこと・もう半分は自己管理が甘かったくらいの考えに留めてひとまず2か月間の休養をいただいたのです。

ですが、ゆっくりと休養がとれて落ち着きを取り戻したので今月から職場に戻ったものの、ひと月も経たないうちに音を上げています。

 

人が足りない・残業が多いといった業務に対するストレスが引き金だと考えて、ひとまず休んで心身をととのえればなんとかなると思っていたのが間違いでした。個人に対する業務量が多いのは確かですが、それ以上に職場の人間関係をどうすることもできない苦しさが根本にあったのです。

仕事中に業務内容や従業員に対する文句が聞こえてくる、直接的に損失につながるようなミスでなくとも執拗に指摘する、残業が慢性化していても見て見ぬふりをする……。休職しようとも一応私は管理者(SV)なので、作業内容の見直しや残業対策をしましょうと上司に持ちかけると、できない理由をつらつらと挙げられるか、やり方も対応も丸投げされて独りで抱え込むしかない状況になってしまいました。他にも同じ立場のSVは複数名いますが、自分のルーチン以外の現場管理・業務改善らしい活動を誰もしていないようです。そもそもお互いがどんな仕事をしているのかが不透明で、意見を求めたり頼みごとをしたりする以前にコミュニケ―ションが取れていません。

上司を頼るのは難しく、横並びのはずのSVと結託もできず、現場からは不平不満の声が上がり重苦しい雰囲気です。重苦しいというのは比喩ではなく、本当に職場に行くと空気が澱んでいて息苦しくなります。

 

以前なら、自分の考えを根気よく伝え続けて少しずつ協力者を増やしていけば変えられることもある、と言っていたでしょう。ですが今は、そんなエネルギーを職場に対して使いたくないと思っています。

今の仕事は 「やりたいこと」ではないけれど「できること」ではあるのだから、心身が落ち着いて元気になってきたらまた真面目にやっていこうと、6月1日の復帰当初は考えていました。そんな殊勝な考えは2週間と少しの期間で吹き飛んで、今は職場から逃げ出したくてたまらないです。もちろん自身の力量不足は否めません。ですが、職場のひとに対する気持ちがどんどん離れているのです。業務自体は多少大変でもやっていけると思えるのに、このひとたちと同じ空間で働きたくないという気持ちの方が勝っています。

仮に業務量が減って作業が楽になったとしても、人間関係で生じる摩擦や無力感は変わらないだろうことを思うと、これ以上今の職場にいてもいずれ耐え切れなくなるでしょう。どうしてもやりたい仕事というわけでもなく、守るべき家族がいるわけでもありません。まして非正規雇用・時給制で働いている身分からすると、残業なく帰るために一所懸命仕事を片付けても、残業してゆっくりと仕事をこなすひとの方が高い報酬を得ていると思うと真面目にやっているのが馬鹿らしくなってしまいます。

 

休職するところまで追い詰められて、愛着もない職場に長居する理由はありません。逃げだと言われようが無責任となじられようが、自分の身を守るのが最優先です。先のことがわからないからといって今の職場にしがみついたところで、次につなげる前にまた自分を損ねてしまいかねません。

自分に害をなすものからは距離を置くこと。これ以上傷口を抉られる前に、逃げる算段をつけて参ります。

ただの日記/3月13日

まずは少しでも記録を残す習慣を取り戻すところから始める。何もない1日だったと思っても、自分の気づきが足りないだけで何か起こっているのだ。

福岡市博物館の「アール・ヌーヴォーのガラス展」を観るため朝から出かける。初めてコメダ珈琲に行き、初めてモーニングというサービスを受ける。つくづく喫茶というか、外食に縁遠い生活を送ってきたのだと思う。博物館の展示品はほとんどがエミール・ガレかドーム兄弟の制作だった。きらびやかな宝飾品のような作品を期待すると的外れ感は否めなかったが、技巧を凝らした重厚なガラス花器を楽しめた。個人のコレクションをデュッセルドルフ美術館へ寄贈したものだそうで、ジャポニズムの影響を受けているもの、水中(というか魚)を表現したものが多いようだ。こうもり、おたまじゃくし、トカゲ、かたつむり、フンコロガシなど、なんでこんなモチーフをガラスで表現したのだと言いたくなる作品がたくさんあった。魚の頭が浮き彫りになっているガラスの花器に、いったいどんな花を活けるのだろうか。ガラスや器というと無意識に日常使いのものだと思っていたが、奇想天外で実用性のなさそうな展示品は、制作者やデザイナーの表現欲がストレートに具現化された自由さをたたえていた。

 

風が冷たく夕方から雨が降りだしたので、早めに帰りおとなしく家で過ごす。最近あまり眠れない日が続いているが、もう無理に眠らなくてもいいような気がしてきた。仕事に行きたくないと思う。でも仕事をもう少し気持ちよく頑張れたら、自然と眠れるようになる気もする。無理に頑張るからうまくいかないのだ。無理を少しずつ減らしていきたい。

冬は、自分で終わらせる

3月といってもまだ寒暖の差が激しく、手放しに春だとはいえないこの頃です。体力的にも精神的にもつらさを感じながら、1日が瞬く間に過ぎてしまいます。

気づけばおかめ納豆の懸賞で当選したりんご40個はジャムになりタルトタタンになり1か月と経たず姿を消し、木曜時代劇「ちかえもん」は終わってしまい、ブログどころかインターネット自体にアクセスするのが億劫になっていました。入ってくる情報を整理できなくなる程に混乱した状態で、目の前の生活に振り回される毎日です。

でも確実に日は長くなってきていて、ふらふらと外を歩き日光に当たると、日常を取り戻したいと思うようになりました。自分の日常はこんな苦しくつらいものではなかったこと、今の状態は普通ではないことを歩くうちに思い出してきます。復活しようという心持ちが生まれてきます。

 

誰かが助けてくれるわけではないし、問題をじっとやり過ごせば解決するわけでもありません。現状打破しようにも、そんな気力は湧いてこない面倒な状態に陥っています。

それでも、暗くて寒い日々に震えていたこの前までとは少しだけ変わってきていて、PCの前で文章を書けるようになってきました。まだ力は足りないし、何ひとつ準備もできていないけれど、つらい冬の時期はもう終わりです。

今の自分に鞭打つような真似をするのは無理がありますが、苦しみの落としどころをつけて、新しい季節を目の前に広げてやるのです。急に元には戻れなくても、新しい自分のリズムを作りあげていけばいい。ゆっくりと復活していけばいい。

少なくとも今抱えている苦しみは当たり前のものではなく、本当に抱えていたいものを受け入れられるように、また一歩ずつ踏み出す季節をはじめます。

慣れたからといって、平気なわけじゃない/ディック・ブルーナ『うさこちゃんとたれみみくん』

寒さと仕事にやられて、倒れては跳ね起き奮闘する2月でした。

体を休める時間は確保できても、目に見えない傷が心を縮こまらせている感覚は抜けません。原因は大体似たりよったりで、そんなストレスにはもう慣れっこになったと思っていたのに新しい傷はどんどん増えていきます。

 

ディック・ブルーナの絵本『うさこちゃん』シリーズに、『うさこちゃんとたれみみくん』というお話があります。

 

うさこちゃんと たれみみくん (3才からのうさこちゃんの絵本セット2) (ブルーナの絵本)

うさこちゃんと たれみみくん (3才からのうさこちゃんの絵本セット2) (ブルーナの絵本)

 

 

うさこちゃんの通う学校に転校してきたダーンという男の子は片方の耳が垂れており、クラスメイトからは「たれみみくん」と呼ばれるようになります。そんな呼ばれ方を本当は嫌がっているのではないかと、うさこちゃんがダーンに尋ねると「うん、いやだよ」と答えが返ってくるのですが、「ぼく、もうなれてるから。それに、みんながぼくのことをもっとよくしったら、かわるんじゃないかな」。

いくら慣れているといっても、嫌なものは嫌なまま存在しつづけ、己を蝕んでゆくのではないでしょうか。「もうなれてるから」と言うのは、転校してくる前から何度も同じ目に遭っているから。「みんながぼくのことをもっとよくしったら、かわるんじゃないかな」という言葉には、積極的に誰かと関わったり、自分の気持ちを伝える機会が持てなかったことを想起させます。気持ちを伝えても理解してもらえなかった経験があるために、受け身になっているのかもしれない、とも。

傷ついた、悲しい、とわめきたてるのは簡単です。でもそれは一時の感情の表出でひとをねじ伏せようとする強引なやり方ともいえます。傷を負った時、冷静に状況を説明してこれ以上傷を増やさないようにするには相当なエネルギーを必要とします。エネルギーの消耗を防ぐために、苦しさに慣れてしまって耐え忍ぶのもひとつの方法ではありますが、平気なふりをして傷を深めていくのはとてもつらいことです。

絵本では、ダーンの話を聞いたうさこちゃんが、翌朝クラスメイトにある提案をします。とても簡単なことなのだけれど、自分がやろうと思うと難しくて勇気のいることです。こんなにうまくいくわけないじゃない、と穿った見方をしている自分を感じながらも、こうあってほしいと願うラストになっています。

 

うさこちゃんのように、みんなに提案するほどの勇気もエネルギーも、正直今の自分には足りません。でも、話を聴いて少しでも相手のことを考えられる思いやりは持っていたいのです。

苦しいのが当たり前なんて、地獄にいるのと同じではないですか。慣れによって感覚が麻痺してしまったとしても、傷は増え重荷はのしかかってきているはずです。取り返しがつかなくなる前に、平気なふりをしていた傷を手当てしてあげたいと思う2月の終わりでした。

なんにもしなかった日/2月21日

普段から大したことは何もしていないし、いつものように料理や洗濯や掃除や買い物はしたけれど、今日はなんにもしなかった気がする。そしてなんにもしていないことを後悔していない。

このところ仕事をしている時も家にいる時も、何かしていなければならないと焦燥感に追われる日々を過ごしていた。生きている限り何かを成し遂げなければならず、何者かにならなければならないとどこかで思っている。そして思うように物事を進められない自分に苛立ちを感じ自責の念に駆られる。

そんな思いがなくなったわけではないけれど、今日は思うように行動できていない自分を責めることもなく、まあいいかと軽く流して過ごしていたら夜になっていた。朝から甘いフレンチトーストを作り、家事を済ませ、何となく目についた漫画を読み、「スター・ウォーズ6/ジェダイの帰還」を観ながらカレーをもりもり食べて、ぼんやりと1日が過ぎてゆく。

普段なら、もっと何かしなくてはならないと焦ってしまい夜も寝つけない日が多いのだが、ぼんやりと過ごした今日は早い段階で眠気が来ている。仕事や生活が今のままでいいわけはないのだが、自分なりに自分を許すスペースを少しでも用意しておく方が心穏やかに過ごせるものだ。

「このままでいいのか」という問いを持ち続けながら、今の自分を受け入れる心の幅を広げていきたい。