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「スープが冷めないうちに」【第14回】短編小説の集いリライト

もう第15回のお題が出ていますが、第14回の感想で人称を変えて書いてはと言及いただいたので、リライトに挑戦してみました。

masarin-m.hatenablog.com

 元々の投稿作はこちら。三人称で書いたものを、今回は旦那さん目線で書きました。

karasawa-a.hatenablog.com

 

肉がこんがり焼けた匂いがする。かぼちゃから立つ甘い湯気が漂ってきているのもわかっている。わかっているんだ、食事の時間なんだろう。でも今ここで下に降りるわけにはいかない。返事を、返事をしなくては。君の呼ぶ声、階段を上がってくる足音、ドアノック。わかっているんだ。
「今いいところなんだ、邪魔しないでくれ」
さっきからずっといいところのまま、君の作った料理のせいでちっとも内容が頭に入ってきていない。進みそうなペンがあらぬ方向へ転がってしまう。
「あなた、ちゃんと下で食事しましょうよ。体に悪いわ」
下に降りた日にはもう、論文の続きはできないだろう。美味しいものを腹いっぱい食べてしまったら、明日の講義の資料はどうする。発表を控えた論文はどうなる。
「大丈夫だよ、大学では学食で適当に食べているし、今は早くこの本の内容をのみこみたいんだ」
食事をしている場合じゃない、早く、早く仕事を終わらせなくては。
君が夕食をスツールに置く音が聞こえて、やっと本にのめり込む、なのに香ばしい肉の匂いが漂ってくる、今いいところなんだ、邪魔しないでくれ。かぼちゃの甘い匂いはきっとスープで、冷めないうちに飲み干してしまいたい、今いいところなんだから邪魔しないでくれ。君のことだからきっと紅茶はポットに入れて持ってきてくれているんだろう、だから邪魔しないでくれ。デザートはそうだ、肉を焼いているってことはオーブンを使っているな、パイでも作ったんだろうか、いい加減にしろ邪魔しないでくれ。
料理上手な奥さんというのも考えものだ。

例によって寝不足の朝、いつも通りコーヒーで済まそうと向かった食卓が普段と違っていた。パンの焼ける香りと玉子とハムの温かな空気が立ちこめている。普段はサラダやスープをきっちり用意しているのに、珍しく今朝はハムエッグトーストだけだ。君がいたずらっぽい顔で出してくるから、寝ぼけた頭でつい一口かじってしまった。パンの軽い歯触りに柔らかい玉子がの食感が楽しい。ハムの塩気に黄身が絡まって、パンと混ざりながら舌の上を転がる。ああ、子どもの頃読んだ冒険小説に出てきたハムエッグトーストだ。あの少年は慌てて頬張って飛び出して行ったんだったか、そういえば読みたい本を読むことも、味わってものを食べることもしばらく忘れていた。ゆっくりと味わって食べたいところだがもう時間がない、もっと早く起きるんだった。慌てて頬張ったら君が頬杖ついてにこにこしながらこっちを見ている。そうか、君なりに気を遣ってくれたってことなんだな。
「これ、あの本の朝食だろう、今日は冒険にでも行けそうだよ」
できるだけお礼に心を込めて家を飛び出す。寝不足なのに頭は冴えて足取りも軽い。早く仕事を終わらせて落ち着いて食事をする時間を作ろう。

それからしばらく、小説や旅行記に載っている料理が夕食に再現される日が続いた。どうやら読み直そうと思って積みっ放しにしていた本の山からレシピを見繕って作ってくれているらしい。どうしても期限付きの仕事を優先してしまうとはいえ、せっかく君が趣向を凝らしてくれているのに無下にはできない。昼休みは抜きにして、替わりに早めに帰って夕食を少しでもとれるようにした。
思えば一緒に暮らし始めた頃は朝晩ゆっくり食事をしながら話していたのに、いつの間にかおざなりにしてしまっていた。仕事が立て込んできたのはもちろんだが、一度本を読み始めたら止まらない癖が悪い方向に行ってしまっていたのかもしれない。読みだしたら梃子でも動かないわりに、料理の匂いには敏感で集中力をそがれるなんて中途半端だと言われたら返す言葉もないが。本に首っ引きで自分の部屋と大学の往復ばかりしているような暮らしなのに、文句も言わず身の回りのことを引き受けてくれる君には苦労を掛けてばかりだ。この仕事にけりがついたら、今度は君に食事をふるまうよ。いつもやってくれているように、市場で新鮮な食材を揃えよう。庭も君が世話をしてくれているから、いつでも野菜にあふれている。スープがとびきり上手な君のために美味しいレシピを探してこよう。デザートはさすがに用意できそうにないが、お茶の準備くらい任せてもらおう。あの頃のように、ゆっくり食事をしながらたくさん話そう。そのためには早く、早く仕事を終わらせなくては。

やっと机から離れられた今日の昼食は全部君のために作ったものだ。今朝釣れたばかりの魚が手に入ったから、パエリアにしてみたんだ。内臓は取ってもらったし、貝も砂抜きしてあるから失敗もないだろう。サラダを欠かさない君を倣って庭のハーブにゆで卵を和えることにした。これは食べる前に塩とオリーブオイルをかけよう。スープは玉ねぎをじっくり炒めて甘みを引き出した自信作だ。いつも時間をかけていろいろなスープを作ってくれているのは知っているつもりだ。ポットもカップも温めてお湯をたっぷり準備したから、お茶もいつでも飲めるだろう。準備は万端だ。
君を呼ぶけれど返事がない。そういえば珍しく2階にこもっているんだった、何をしているんだろう。階段を上ってドアをノックする。さあ、スープが冷めないうちに一緒に食べよう。久しぶりにゆっくり話そう。
「今いいところなのよ、邪魔しないで、今は早くこの本のレシピをのみこみたいの」