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今聞いている音を、いつまで覚えているだろう/百年文庫『音』

百年文庫第5巻、『音』の感想です。

(005)音 (百年文庫)

(005)音 (百年文庫)

 

収録作品

幸田文「台所のおと」

川口松太郎 「深川の鈴」

高浜虚子「斑鳩物語」

音はその身をうつしだす

きょうはあきは落附いて、佐吉の食事ごしらえができる。胡桃をすり鉢にかけて、胡桃どうふをこしらえようとしていた。すり鉢の音は、台所の中ではおもしろい音だった。鉢の底とふちとでは音が違うし、すりこ木をまわす速度や、力の入れかたでもちがうし、擂るものによってもその分量によっても違う音になる。とろろをすればくぐもった音をだすし、味噌はしめった音、芝海老は粘った音、胡桃は油の軽くなさを音にだす。早くまわせば固い音をさせ、ゆるくまわすと響く。すりこ木をまわすという動作は単純だが、擂るものによっては腕がつかれる。そういう時は二つ三つ、わざとふちのほうでからをまわすと、腕も休まるし、音もかわって抑揚がつく。擂る人がもしおどけるなら、拍子も調子も好きにできるところがおもしろかった。あきはすりこ木の力や速度に強弱をつけず、平均したおとなしい擂り方をするのが好きで、決してすり鉢を奔放によごさない。あきのそれは、自身の性格が内輪でもあり、佐吉の教えにもよるものだが、佐吉のそれは、性格というよりも小僧っ子の時に親方から躾けられ、厳しく習慣づけられた結果だという。

幸田文「台所のおと」

料理屋を営む佐吉は病床で、妻のあきが立てる台所の音を聞いています。音を聞くだけではなくて、音が聞こえてこないことからも、どんなふうにどんな仕事がされているのか、じっと考えるのです。何も見えなくても、音で相手の気配や心のうちをはかる細やかさと、そんな佐吉を気遣って小気味の良い音を立てるあきの静かな想いがしっとりと感じられました。

人それぞれがもつ何気ない音は生活のあらゆるところに潜んでいて、時に誰かを思い出しては妙な感慨にふけったり重苦しい反省の念を感じたりします。過去の記憶は決して楽しいものばかりではないけれど、その時々の音とともにまざまざとうつしだされるひとは、いつまでも忘れずに残り続けます。自分の立てる音はせめて居心地の悪いものになっていないだろうかと思うと同時に、佐吉のようにひとつひとつの音を耳を澄まして聞くことを怠っているようにも思えて、五感をもっと大切に使いたいという気持ちにさせられました。 

幸田文の書く文章は、読んでいるこちらの背筋が伸びるようなかっちりとした文体と、かな遣いの柔らかさに挟まれて、テンポよくゆったりと読み進められるように思います。文豪の娘といっても森茉莉とは真逆を行く生活のプロのようなイメージです。文章だけではなくて動作もきびきびしていたであろう幸田文も、いつまで読点でつなげるんだという自由できらびやかな文章を書く森茉莉も、どちらも好きですけれどね。

聞いたことのない音を、どうやって想像すればいいのだろう

川口松太郎の「深川の鈴」は文章で身を立てようとする「私」の物語ですが、タイトルにある鈴はとても色っぽい音を立てるので、朝電車の中で読んでいた私は思わずページを飛ばしそうになりました。「私」の文章が認められるようになると、その鈴は鳴らなくなってしまうのですが、十数年の時を経て思わぬ形でその音を思い出します。

高浜虚子の「斑鳩物語」では夜更けに冴えた機織りの音が聞こえてきますが、機織りなんて見たこともない私には音のない映像を見ているようなシーンでした。奈良の美しい春の景色に、のんびりとした地元の人の言葉が流れていきます。機織りの音は知らないけれど、ほがらかでありつつもきっぱりとした台詞は耳に心地よく響きました。

音はいくら文章で説明したところで、実際に聞くほかにわからないというあたり、想像力と耳の力を試されているようです。音楽も同じで、どんなにライナーノーツやレビューを読んでも聞かなければ全くわからず、本のようにあらすじもなくてなんだかずるいとさえ思います。でも、一度聞いた音はいつの間にか自分の中に根を下ろしていることもあって、無意識のうちに記憶の一部となっていきます。

自分だけが感じ取れる音は、大切な記憶とともにそっとしまっておきたいと感じさせてくれる1冊でした。