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『恋愛氷河期』で考えた、結婚観について

「恋愛・セックス・結婚がうまくいかないのは、社会が悪い!」という帯の文句に若干のけぞりながら手に取った本でしたが、日ごろモヤモヤしていたことが少し見えた気がしたので書こうと思います。 

恋愛氷河期

恋愛氷河期

 

ハレの恋愛

本書には恋愛するのが難しくなっている理由がいくつか述べられています。たとえば以下のような内容です。

  • 自由恋愛できる期間が長期化したことによる男女の恋愛偏差値に大きな差が生まれてしまったこと
  • 自分が傷つきたくないという自己防衛が男女ともに高まったこと
  • 経済的に自立した女性にとって結婚が生きていくうえでの条件から外れた

20代前半でなだれ込むように結婚が成立していた頃に比べて、平均初婚年齢が30歳を超える現代では自由恋愛の期間が長いため、男女ともにお互いを知る機会も増えた分、相手に対する採点基準も高くなってしまいます。一方で、恋愛市場で経験値を積んだ男性はごく少数で、経験値の低い未熟な男性が相対的に増えてしまったことによる男女間の意識のバランスを欠いた状況に陥っているといいます。

そんな中で私が特に興味をひかれたのが、日本人の恋愛を「ハレ」のものとして取り上げた部分です。

自身の親を見るにつけ、カップルという1対1の関係が彼らにあったのだろうかと常々感じていたので、私にとってこの表現は腑に落ちるものでした。結婚は社会規範のひとつと私は考えているのですが、その規範にのっとって生活しようという時に「ハレの舞台だ、状況だ」といつまでも恋愛という非日常的な感情を前面に出していくのは困難なはずです。

「家」という制度を存続させるために結婚を手段として使ってきた歴史が根強く残ってきた中で、その手段に結びつく前段階がお見合いや夜這いから個人の感情に任せた恋愛になっていることに、私はどうしても違和感を覚えていました。個人的な感情でやっていたことを、急に社会の一員として活動しますと発表するような感じです。この違和感を社会や文化として解消しないまま、結婚=家という日常の中に恋愛を取り込めず、「ハレ」と「ケ」という両極端な状況を無理やりくっつけてしまっているんじゃないかと感じるのです。

恋愛によって非日常を体験した後、結婚という日常に収まりますが、パートナーは日常の一部と化してしまったために「浮気」という非日常を求めてしまうというのも納得です。*1

結婚する理由ってなんですか?

「老後独りになるのが不安」だったり「仕事を続けるのがつらい」だったりと様々な生きづらさを背景にした理由が出てくることもありますが、本書では「愛のみにもとづく」ものでなければならないとしています。

私は前述のとおり結婚は社会規範のひとつだと思っているので「したらお得かもしれないけどあまり興味がない」というのが本音だったりします。もちろん、本書のいうとおり愛のみにもとづく結婚ができたら理想的と思います。

でも一方で、結婚しないとダメですか?とも問いたい気持ちがあります。

ひとつは、本書にあるとおり「自己肯定間の低い人は恋愛しちゃダメ」という理由から。自分のことを大事にできないのに、早く恋人を、結婚をと焦るくらいなら、まずは己のことからと自戒を込めて思っております。

もうひとつは、愛するひとと共に生きていけるなら、結婚してもしなくてもいいんじゃないのかなという思いからです。しかし、子供がいたり、同性カップルだったりという場合は結婚という制度は重要だとも思うのです。やっぱり愛という個人の感情や行動が、社会規範とうまく折り合えていない気がします。みんなが暮らしやすいようにいろんな制度があるんじゃないのかな、という期待に外れているからモヤモヤが晴れないのでしょう……

もうむしろ恋愛感情の有無は抜きにして、私は共に同じ方向を向いていられるパートナーがほしい。語りたいことを語り、お互い切磋琢磨してやりたいことを成し遂げる相棒がほしい。

恋愛とか結婚という言葉がだんだんわからなくなってきたあたりでやめておきます。こういうことを考えたり表現したりすることができる時代に生まれただけよかったとは思ってます。

*1:この「ハレ」と「ケ」についてフランスと比較されていますが、日本人男性の浮気はフランス人男性の10倍にもなるそうです。