エストラゴン・オウ・ヴィネーグルを食べる/中井英夫「美味追真」
エストラゴン・オウ・ヴィネーグル。
中井英夫『とらんぷ譚』のハートに当たる章、『人外境通信』の「美味追真」に書かれるそれは、新宿の高野の地下食品売場という九州島民にはまるで縁のない東京の風景であり、想像するほかない戦中・戦後を生きた人々の姿を見せつける装置でした。
エストラゴン・オウ・ヴィネーグル。
よもぎの、酢漬け。
フランス料理といっても、家庭ではまずめったに用いられないこの名を、できればあまり多くの人が知らないといいが。
-『中井英夫全集3 とらんぷ譚』より「美味追真」(p434,中井英夫/東京創元社)
きっとおフランスに行かない限りお目にかかることもないのだろうなあと、読み返してはなけなしの想像力で味わってみようとしていたのですが、少し足を伸ばした先の輸入食材店に本物が置いてありました。心の中では「ああ、やっとあった。ずいぶん探し廻ったんですよ」と喜ぶ少年です(作中では少年ふたりが一緒に探してたんですが、私はひとりで喜んでおりました)。
エストラゴンはフランス語で、英語ではタラゴンと呼ばれるよもぎの一種です。よもぎ餅の、あのよもぎとは近縁種とのことで、タルタルソースにしたり鶏肉・魚介料理に使われたりするそうです。薬草として使われていたのは日本と同じなんですね。
おすすめされてるとおり鶏肉といただこうと思いつつも、まずはエストラゴン・オウ・ヴィネーグルそのままを食べてみたんですが……作中の「私」は壜から中身をちょっとつまんで「仄かに甘酸っぱい味を賞味」したとあるんですけど、仄かどころか強烈に鼻に抜ける酸っぱさにひとりで顔芸やってしまいました。ひとり暮らしでよかった。
「ご使用前は洗浄してお使いください」と壜に書いてある通り、洗って軽く絞って食べたんですが、洗い方が足りなかったのか、酢の浸み込みようが半端ないのか、とにかく酢が強烈でなかなかよもぎの味にたどり着かないんですね。そしてよもぎにたどり着いたと思ったら、独特の青臭さがまた鼻に抜ける感じで何ともいえない。あんこの入ってないよもぎ餅に大量の酢をかけたらこんなになるのかしらん。見た目はちょっとくすんだおひたしみたいだし、本には甘酸っぱいって書いてるしでナメてかかってました。
どうやらそのまま食べるものではないようで、卵とマヨネーズと一緒に和えて、蒸した鶏むね肉にかけたらさっぱりと美味しくいただけました。やはり酸味が強い感じがあったので、もも肉の方がもっと美味しく食べられるんじゃないでしょうか。卵との相性も良いみたいで重くなり過ぎないソースとして味わえます。
実際Amazonにも出品されているくらいですし(さっき知った)、国内はともかく海外に行けばもう少しお目にかかれる食べ物なのかもしれません。でも私にとって、エストラゴン・オウ・ヴィネーグルは想像する以外に味わう術のない謎に包まれた食べ物のひとつでした。それが、いざ本の中のアイテムを手の内に収めると、わりとあっけなくて拍子抜けすると同時に、物語の世界が自分と地続きにあると確認できたのでした。
食べることもままならなかった時代。闇市を駆け抜け、どうにかやりくりし、ぼろぼろになりながらも、中井英夫の書く戦後はどこか危機感の薄い、生活にあふれた世界です。飢えが日常だった頃からは考えられないほど食べ物が溢れかえる世の中に様変わりする時代を見ながら、「私」はまだ戦後に囚われています。読み返すたびに、私は自分が生まれてもいなかった「戦後」という中井英夫の書く過去を体験し、読み終えては未だに戦後と呼ばれる現在と本の中の「戦後」をつなげようとしました。
さすがに「私」が薦めようとしていた「アミルスタンの羊」で味わうわけにはいきますまいが、もう少し壜に残っているエストラゴン・オウ・ヴィネーグルをもう少し美味しく食べるために、肉と魚を用意しておこうと思います。
東京創元社の『とらんぷ譚』で読んでるんですが、全4部52編+ジョーカー2編で700ページくらいあるので、分冊されてる講談社文庫の方が持ち運びしやすいですね……。