雪の下

あのひとに想い人がいるのは知っている。その恋が実る日は来ないであろうことも知っている。不毛な恋に身をやつすあのひとを呼び戻そうとするも、私の声は小さく風にかき消されて届かない。

珍しく雪が積もった朝は交通機関が麻痺し、職場に遅刻の連絡を入れながら白く覆われたいつもの道を幼子の如く歩く。雪は昨夜から降り続き、今もまだ足元で嵩を増やしていく。普段よりも遅れて駅前に着くと、電車を待つ人々の端にあのひとがいた。目立たぬよう柱の陰に身をひそめて、想い人を待っているいつもの姿と変わりない。待ち合わせのためにそこにいるのではなく、さも偶然通りかかったように相手の前へ現れるために、いつも目立たない場所でひっそりと相手を待っているのだ。

下手をすればストーカー扱いされかねない行為をやめさせたくて、声をかけたことがある。部署は違っても同期入社のよしみで話しかける機会はいくらでもあるのだ。ちょうどいい電車があるから一緒に乗らないかと誘うと、待ち合わせしているからもう1本あとの電車に乗るつもりだと断られた。

埃っぽい春の日も、汗が止まらない夏の日も、うら寂しい秋の日も、あのひとは待ち合わせと称して柱の陰に立っている。そんな姿を延々と見続けて、単純なはずだった私のあのひとへの思いは迷路を駆け巡るように乱れはじめ、とても素直に吐き出すのは憚られるものになってしまった。気取られぬよう水の底や枯葉の下や積もった雪の中に封じ込め、それでもあのひとを思うのをやめることはできない。

あのひとの想い人はとうに結婚して子どももおり、週末は家族団欒を楽しむような、生活に恵まれた人物だ。降りしきる雪に凍えながら想い人を待つあのひとを見るにつけ、お前なんかが入り込む隙なんか1ミリもないんだから諦めてしまえと叫んでしまいそうになる。大声でがなり立てれば私の声も届くだろう。ただし張り上げた声に空気は震え、積もり積もった思いが雪崩となってあのひとを襲う結果を招くだけかもしれない。

雪が融ける頃には、封じ込めた思いはもう少し優しくまろやかになって表せるだろうか。雪に埋もれたせいで、冷たく突き刺す言葉そのままが冷凍保存されているだけなら、そろそろ思いを封じ込めるのも限界だろう。単純だった最初の思いを取り戻さなければ、沈み積もった叫びは行き場をなくして私だけでなくあのひとをも苛む。

今日は風もなく深々と雪が降っている。電車待ちの人々の喧騒も雪に吸い取られている今なら、私の小さな声も少しは届くかもしれない。柱の陰にそっと顔を出して、どうせ遅刻なんだから一緒に行きませんかと、本当に伝えたいことは雪の下に隠して声をかけた。

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