博多座文楽公演へ行ってきました(昼の部)

師走恒例の博多座文楽公演に行ってきました。今回で11回目になるそうです。昼の部、夜の部両方観たのですが、今回は人形遣いの吉田玉女改め二代目吉田玉男さんの襲名披露もあって大変おめでたい舞台でした。

昼の部

2階席だったので舞台は少し遠かったです。舞台向かって右側の「床」に義太夫を語る大夫さんと三味線弾きさんが座ります。開演後、「文楽を楽しもう」という文楽や当日の演目に関する解説が行われてから各演目が始まりました。

襲名披露狂言「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」は源平合戦の一ノ谷の戦いのあたりの物語です、と登場人物や時代背景についてわかりやすく説明してくれた後、もうひとつの演目「釣女」は「前代未聞の婚活」と称し笑わせてくれました。

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吉田玉女改め二代目吉田玉男襲名披露口上

今回は二代目吉田玉男さんの襲名披露興行でもあるので、始めに口上がありました。

昭和41年、中学生の頃から文楽の世界に足を踏み入れていた玉男さん。吉田玉女として初代吉田玉男の弟子になり人形遣いをつとめられていましたが、初代の没後9年となる今年、師匠の名前を襲名されました。

床に、大夫の竹本千歳大夫さん、人形遣いの桐竹勘十郎さん、吉田玉男さん、吉田和生さんが並び口上を述べます。歌舞伎だと、舞台上に家族や一門の関係者がずらりと並びますが、文楽は舞台の横で襲名する本人と大夫さんひとり、同期入門のおふたりのみ。博多座は文楽専門の劇場ではないので、スペースの問題でこうなっただけかもしれませんが……。文楽は歌舞伎のように世襲制ではないので、必ずしも親や師匠の名前を告げるとは限りません。実力によって名前を継ぐ、厳しい世界だと感じました。

それにしても、普段舞台で声を発することのない人形遣いさんが普通にしゃべっていらっしゃる……! テレビ出演などでお話しされているのを観たことがあるとはいえ、勘十郎さんや和生さんの声を生で聴いてしまったわいと変なところで興奮しておりました。ただ、主役ともいえる玉男さんは一言も発しないまま口上は終了。イヤホンガイドによると「人形遣いは声でなく芸で魅せる」とのことでした。歌舞伎では必ず襲名する本人が挨拶をしますが、襲名披露といっても文楽と歌舞伎では別物のようです。

私は初代吉田玉男の芸をリアルタイムで観ていません。観ていたとしても、まだ文楽を観始めたばかりでさっぱりわかっていない頃だったと思います。なので、私にとっての「吉田玉男」は今の二代目しかいません。吉田玉女さんの遣う立役は堂々とした存在感があってかっこいいなと思っていましたが、これからの吉田玉男さんの芸を見続けていきたいです。

一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)

熊谷桜の段/熊谷陣屋の段

歌舞伎でもたびたび上演されている演目です。あらすじはWikipediaに詳しく載っています。

一谷嫩軍記 - Wikipedia

恩人に責められても本心を隠してじっと耐え忍び、息子を失った悲しみもこらえ、義経の思惑に沿った判断ができたのか息を詰める熊谷の強さが観ていて悲しくなってきました。最後は出家の道を選び、「十六年も一昔。ア夢であつたなア」とやっと感情をあらわす姿がやっぱり悲しい。首実検で身代りを差し出すという展開は他の演目にもありますが、現代の感覚だとこんなの絶対おかしいよと言わざるを得ないです。忠義と恩の板挟みにあい、大切なものを失う悲しみに耐え、最終的には出家。

ですが、一番悲しいのは熊谷の妻・相模じゃないかという思いもあります。相模は夫と息子を心配して、はるばる武蔵から須磨まで、東京あたりから兵庫県までお供も連れずにやってきたら、何も知らないうちに恩人とはいえ他人の息子の身代わりに自分の息子が殺されているわけです。しかも下手人は夫。夫は退職してお坊さんになり、悲しみのうちに自己完結しています。大事な息子を殺した男と残りの人生を共にする……夫に対する憎しみが毎日積み重なっていくのではと思うとぞっとします。

以前、歌舞伎で中村吉右衛門が演じる熊谷陣屋を観た時は、板挟みにあう熊谷をはらはらしながら応援し、花道で「十六年も一昔……」と言う姿に悲しみや虚無感をひしひしと感じて、熊谷陣屋、切ないと思っていました。吉右衛門に強く惹かれた舞台であったといえます。

ですが文楽で観ると、メインは義太夫の語りというところもあってか、物語そのものの面白さや、熊谷にフォーカスしながらも周りの人物たちの立ち位置や感情についても考えさせられるのです。うまくいえないのですが、誰かに感情移入するというよりも、物語全体を俯瞰していろんな登場人物のいろんな感情をないまぜに体験する感覚があります。

玉男さんの熊谷、強さで完全武装した武将から最後は鎧がはらはら剥がれていくようでした。和生さんの相模はしっかり者の優しい奥さん、勘十郎さんの藤の局は息子への愛に満ちた芯の強い女性でした。

でも、物語がどうにもすっきり呑み込めないのです。楽しかったとかつまらなかったとかではなく、言い表せないモヤモヤが後に残るのですが、決して不快なものではありません。義太夫の語り、三味線の音楽、人形の動き、それぞれを観るたびにいつも違った見え方があります。だからこそ何度でも観たくなるのだろうなと思います。

釣女

重たい時代物でモヤモヤした後は、狂言の「釣針」を元に作られた楽しい演目です。

お嫁さんが欲しい大名と同じく独身の太郎冠者が、結婚祈願に恵比寿様に詣でます。結婚祈願なのに、恵比寿参りというのが既になんだかおかしいのですが、早速「妻となるものは西の門にいる」と夢のお告げがあります。

喜び勇んで門へ向かうも、女性の姿はなく足元に釣竿が落ちているばかり。恵比寿様は釣りばかりしているから、これで奥さんを釣っちゃえってことなんじゃない?と大名が釣り糸を垂らすと、「小野小町か楊貴妃か」と美しい女性が釣れました。その場で三々九度の盃をあげた目の前の新婚さんがうらやましい太郎冠者も、同じように釣りを試みます。

やはり釣れた女性に、太郎冠者は末永く添い遂げようと言いながら相手の被り物をとるのですが、現れたのはおたふく顔の全然美人じゃない女性。登場人物欄には思いっきり「醜女」と書いてあります……。「ヤアわごりよは鬼か化物か。なう消えてなくなれ消えてなくなれ」と相当ひどいことを言いながら逃げ出す太郎冠者。添い遂げようといったからにはと、太郎冠者も三々九度の盃をあげるはめになりますが、どさくさに紛れて大名の奥さんを連れ去っていきます。怒った大名と太郎冠者の奥さんが後を追いかけて、終幕。

難しいことは考えず、ただただ笑って観られる話です。通常、文楽の女性の人形に足はついていないのですが(着物の裾の動きで表現します)、醜女の人形には足がついています。ドタドタ足音を立てたり、美女を連れて逃げ出した太郎冠者に「エエ腹の立つ」と足をバタバタさせる演出があるからだと思うのですが、はんなりとおしとやかだったり、かっこよく得物を振り回したりする文楽の女性たちの中で、この醜女は非常にユーモラスです。

伝統芸能と言うと厳かな感じがしますが、観客席から笑い声の絶えない、愉快で気軽な演目もたくさんあります。 

 

熊谷のモヤモヤを抱えつつも、釣女で笑って楽しく昼の部終演。夜の部はさらにモヤモヤが深くなる「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」です。