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ちぎれた取っ手

買い物を終えた帰り道、食材を詰め込んだエコバッグの取っ手がちぎれました。取っ手の片方はバッグに縫い付けられた根元から剥がれ、もう片方はちょうど手で持つ部分がまっぷたつになっています。

貰い物のこのバッグは、少なくとも3年は私のお供をしてくれたことになります。休日に1週間分の食材を購入するので、保冷シートが内側に張られたバッグには毎週、飲み物や根菜や冷凍食品を詰め込んでいました。今日も右手の重みを当然のものと思っていたら、何の前触れもなく手から何かが落ちる感覚があり、気づいた時には食材が地面にこぼれバッグは手に下げられる状態ではなくなっていました。

 

本当は、バッグが傷んでいる兆しはあったのです。取っ手の根元はしっかりしているように見えたものの、取っ手そのものは少し擦れていて手に触れる部分だけしわが寄ってきていました。それでも、毎週重みに耐えているゆえにこれからも同じ重みに耐えられるだろうと、まさか取っ手がちぎれてバッグが使えなくなるなどということは考えてもみませんでした。

抱えているものの重みに慣れたとしても、疲労は蓄積されていきます。エコバッグは使えば使うほど摩耗するのは当然ですが、ひとも同じように少しずつ消耗していくことを、いつしか考えなくなっていたように思いました。これくらいいつものことだと何でもない顔をして、ある日突然心身の自由がきかなくなった自分をまざまざと見せつけられた気がして、役割を終えたエコバッグはまだ部屋の片隅に置いたままになっています。

 

殴られることに慣れても痛いものは痛いし、痛覚が麻痺しても身体へのダメージは変わりません。同じように、いくら聞き慣れたといっても冷たい言葉は冷たいまま、心に傷跡を刻んでいきます。負った傷から目をそらして痛みを感じないままに過ごしても、重ねられた傷はいつか心の奥底まで到達して自分自身を内側から化膿させてしまうのでしょう。

自分を鍛えるとかこれくらい当然とか理由をつけて、知らず知らずのうちに持ち重りのする荷物を抱えてしまっていないだろうかと己に問いかけます。慣れによって強くなることもありますが、感覚が麻痺していくのもまた慣れが影響しています。疲れてるのが当たり前、つらいのが当たり前ならば、少しでも楽な状態に戻ることを考えないと、蓄積された痛みに突然心身の自由を奪われることになりかねません。

機械だってメンテナンスやアップデートをするのですから、ひとも自分をととのえる必要があります。パーツ交換や買い替えのできない心と体は、自分が労わらなければ摩耗していくばかりです。

 

抱えている荷物の重みに気づいた時、荷を軽くする方法はいろいろあると思います。誰かを頼って減らしてもらったり、可能なら手放したり。とりあえず脇に置いて立ち止まることもあれば、荷ほどきして小分けにすることもあるのでしょう。何にせよ、必要だと思っているもので膨らんだ荷物が、本当に大切なものを押しつぶしていないか丁寧に見分ける時間をつくることになります。

重みに気づきながらもそのまま抱え続ければ、突然取っ手がちぎれて取り返しがつかなくなってしまいます。

 

重たいものを抱えすぎて、今年はいろいろなものを失う日々を過ごしてきた気がします。年末に少しだけ調子を取り戻そうとしていた矢先、これまでの私を体現するかのようにちぎれた取っ手は、油断するなという警告と、大切なものは何だという問いを残してくれたように思いました。