25日のよもぎ梅が枝餅/太宰府天満宮へ行ってきました

九州国立博物館で開催中の特別展「京都 高山寺と明恵上人-特別公開 鳥獣戯画」に行ってきました。

www.kyuhaku.jp

ただ今回は博物館のみが目的ではなくて、毎月25日の大宰府天満宮周辺のイベントの真偽を確かめに行ったのであります。

太宰府天満宮に至るまでの参道やその周辺には梅が枝餅のお店が軒を連ねていますが、毎月25日限定でよもぎ餅が登場するという記事がありました。

fanfunfukuoka.com

菅原道真公こと天神さまは誕生日が6月25日、死没日が2月25日(いずれも旧暦)ということで、毎月25日は天神さまの日とされています。でも太宰府天満宮は何回か来ているけどそんなの知らなかった……情報が古いとか季節限定とかじゃないよね?この目で見ないと信じない(ていうか食べたい)と、むしろ博物館の方がおまけくらいの気持ちで揚々と西鉄電車を乗り継いでやって参りました。

そしたらもう、上記の記事通り西鉄大宰府駅を出てすぐの梅が枝餅のお店に「毎月25日発売 よもぎ入り梅が枝餅」の緑の張り紙が……! 参道には10軒以上の梅が枝餅のお店がありますが、表記に若干の差異はあっても目につく限り全店よもぎ餅の張り紙をしてました。

餅を買う時も普通のとよもぎのと選べるようになっています。値段は同じで、複数個購入する場合は組み合わせも自由。常に店先で白の梅が枝餅と緑の梅が枝餅が焼かれていました。

 

f:id:karasawa_a:20161025235108j:plain

伝説でも幻でもない、よもぎ梅が枝餅は本当にあったんだ

見えづらいですが、ちゃんと梅の印が押してあります。

 

いくつも買ってお土産にするのもいいですが、やっぱりできたてを食べながらとろとろ参道を歩き回るのが美味しくて楽しい食べ方に思います。梅が枝餅には全体的に軟らかなお餅タイプと皮をしっかり焼いたパリパリしたタイプがあって、お店によって食感が違うんですが、これはその場で食べないとわからないです。持って帰って冷凍したのをレンジやオーブンで温めなおしても美味しいですが、作ったばかりの梅が枝餅とはやはり違います(油で揚げるという方法もあるそうです……)。お店によって焼き加減や皮の厚みなんかも違うので、食べ比べして回るのも楽しいです。

 

余談ですが海産物店の十二堂えとやも天神さまの日としてセールやってました。「ださいふー、えとやのー、うーめのみひじき♪」ってちびっ子がつたない感じで歌っている梅の実ひじきのCMがあるんですけど福岡県内だけですかね……。甘じょっぱくて食べごたえもあってご飯が進みます。 

梅の実ひじき

梅の実ひじき

 

 

それにしても天神さまの日だったからなのか、単にタイミングの問題なのか、受験生の集団と自撮り棒を掲げた海外の観光客が途切れることなく押し寄せてきて、あまり落ち着いてお参りできませんでした……。恋人と渡ると別れるといういわくつきの橋*1もひとが多すぎて渡りづらく、脇道から天満宮にお邪魔したくらいです。土休日よりは空いてるかなと思っていましたが、受験、七五三、年末年始とこれから大宰府は賑わう季節になりそうですね。

 

九州国立博物館の特別展の感想はまた別に書こうと思います。 

どうしても鳥獣戯画が目立った宣伝の仕方になってますが、明恵上人というひとを追っていく、ちょっと笑えてあたたかい気持ちになれる展示でした。

*1:本当は仏教思想でいう過去・現在・未来をあらわしたもので、橋を渡ることで三世の邪念を祓う意味があるようです

どうしてだかさびしい。さびしいのだ。

ここ2週間ほど、さびしくてたまらない。自分でも不思議なのだが「さびしい、さびしい」と腹の中から急に何ものかが湧きあがってきて敵わないのだ。ひとりで家にいる時などぬおおと口から洩れることがある。「ぎゃふんと言わせてやる」といいながら実際ぎゃふんなどと言う者はおるまいよと思うのと同じように、ぬおおとかうぎゃあとか活字で表す唸り声をそのまんま口にすることはなかろうと思っていたのに、ここのところ「さびしい」と腹が渦巻いている時言葉にならずウワァーッと叫びそうなのである。買い物したり散歩したりしている最中にも突然そういうふうになるので閉口する。

さびしさを感じることがこれまであまりなかったのもあって、慣れない感覚にびっくりして混乱しつつ「さびしさに襲われる自分」を客観的に見ている自分もいる。いっそのことうぉんうぉん泣き叫んでスッキリできるようなものならいいのだがそうもいかないようで、それだけで涙が出てくるわけでもなく、ただ締め付けられるような体の苦しみだったり地面がカピカピに乾燥してひび割れてるような土地に突然放り出されたような寄る辺なさだったりが突然やってくる。

 

Googleで「さびしい」「淋しい」で検索すると言葉の意味や使い分けに関するページが上の方に表示されるが、「寂しい」で検索すると急にさびしい時の対処法だのひとり暮らしはさびしい、恋人がいてもさびしいなどという情報が出てくる。検索結果の件数も桁が違って、「さびしい」だと約 2,430,000 件、「淋しい」だと約 3,620,000 件、「寂しい」は約 30,900,000 件であった。

30万を超える検索結果の中には実用的なさびしさへの対処法もあれば私のようにさびしい、さびしいといっているだけというのもあるだろうが、とりあえず膨大な情報を取捨選択する気力もないのでさびしさを打ち消そうと救いを求めるのは諦めた。

さびし‐い
【寂しい・淋しい】
 
  1. 《形》
    活気を失い、満ち足りない。
    • 親しい人が居ないなどで、心が満たされず物悲しい。「母に死なれて―」。ほしいものが得られず、物足りない。
       「タバコが切れて口が―」
    • (ひっそりとして)心細く感じられるほどの状態だ。にぎやかでない。
       「―裏町」

検索された意味の通り、今の私には活力がなく満ち足りていないのだ。

退職し、職場から離れて2か月近く経つので、仕事を失って拠りどころをなくした不安からきているのでは思っていたが、その割に職場のことはもうほとんど思い出さないし正直勤労意欲があまりない。働いている時は多少無茶な要求をされてもそれをこなすのが自分の価値を高めることだと信じていたし、それによって人に頼られることで安心して居場所を得られている感覚があった。

ほぼ日刊イトイ新聞に「いつもさみしい問題。」という記事があって、私は「いつもさみしい」わけではないのだが、「『さみしい』時に素直に人に頼ることができない」「誰か頼ってくれる人がいなければ駄目」という意見に激しく同意した。

「『いつもさみしい』は、人に頼らず、
 ひとりが好きなほど、感じやすい。」

こういう心理が生まれる背景に、
「自立」を尊ぶ風潮が
あるように思われるのです。
……そうなると、
つねに自分に「自立」を強いることになり、
それが、孤立を求める生き方につながって、
自分で自分を苦しめることになっちまいます。

https://www.1101.com/samishii/2004-08-26.html

自立と孤立は別物だが「何物にも頼らないこと=自立」と思い込むと孤立への道を深めてしまう。でも誰かに頼らないようにするから、客観的な目線がなくて自分が孤立していっているのにも気づきにくい。働いていたり家庭があったりすれば社会的にはしっかり自立して生きているように感じられるから、自立と孤立が曖昧になっているひともいるのではなかろうか。というか私がそうではないか。

あまりにもさびしいので友人に連絡を取ってみようとした時もあったが、さびしさを理由に人に頼るなど自立していない証であり、相手の迷惑でしかないからいかんと思ったのだ。相手をさびしさの捌け口にするのはよくないが、苦しい時こそ信頼できる友人を頼っていいのではないかと思うのだが、己が自立していることを前提に考えると人を頼ること自体が「何物にも頼らないこと=自立」という図式を壊してしまうので行動できない。

まあそれ以前に、今の私ではさびしさを言語化できず家でぬおおと唸っているだけの状態なので誰ともまともに話せず、無理に連絡などしてもコミュニケーションが取れないだろう。よく悩んだ時、苦しい時など、人と話すと楽になると言うが自分がある程度冷静に話せる状態でなければ相手を困らせるのはもちろん、自分も理解を得られず余計につらくなる可能性が高いから、やみくもに人に話さなくともよい。  

 

それにしたって湧き上がるさびしさが止まるところを知らないので、気になっていた本を読んだ。 

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

読んでいて思ったのが、親との関係を自分の中で清算しないと自己認識や行動、対人関係で同じ苦しみを味わい続けるだろうということと、いくらさびしくても私は風俗にはいかないだろうということだった。 

web連載の『一人交換日記』でも特に描かれているが、行動や判断の基準が親に依存していると抑圧とかさびしさとか自尊感情の低下とか、とにかく自分の人生が窮屈極まりないものになるのだ。親との関係を改善できればよいが「話せばわかる」なんて対応がまかり通るのは稀なことで、親がどうなろうが子どもである自分が区切りをつけるしかない。

comic.pixiv.net

作者がレズビアン風俗に行くのも親からの抑圧から抜け出すための通過儀礼のようにみえたが、しかし初対面のきれいなおねえさんに自分の身を任せるとはものすごいことではないかと思った。「19歳の頃、レジの中からもう誰でもいい、2秒でも1秒でもいいから抱きしめてほしいと思っていた」(p49)というくだりを読んで、「抱きしめてほしい」欲求はよくわかるのだが「誰でもいい」とまでは思わなかったのだ。私はいくらさびしくても得体のしれないひとに己の身を任せることはできない、というか非常に強い恐怖につながる。

読み始めた時は、作者と同世代で考え方にも近いものを感じていたこともあり「ああ、よくわかる」と思っていたのだが、徐々に妙なズレを感ずるようになっていた。なんというか、作者は人に対して無防備というか人を信じているひとなんだろうなという気がした。就職活動中でもマンガを描くのを頑張りたいと面接官に言えてしまうし、誰でもいいから抱きしめてほしいと見知らぬ人を見つめながら思えるし、恋愛したことなくとも風俗に行って体を預けてしまう。

どちらかというと私はひとを恐怖の対象としてみてしまうことの方が多く「誰からも拒絶される」ことを前提に行動しているので、作者が「どこに行っても誰かに受け入れてもらえる幸せなひと」に見えてしまった。実際そういうわけではないのだろうが、私自身がいかにひとを避け、自立ではなく孤立の道をひた走っているかまざまざと見せつけられたように思う。

 

親子関係については思うところあって『毒になる親 一生苦しむ子供』(スーザン・フォワード/講談社+α文庫)を読んでいるのだが、読み進めるのが苦しい。私は子どもの頃身体的な虐待を受けたり、突然親がいなくなってしまったりするようなことはなかったが、親との関係がうまく築けなかったのは確かだ。本書には親に対する考え方についてチェックリストが載っているが、読み進めるごとに今のさびしさの出どころを抉られるような感覚をおぼえる。

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

 

 

ずっと腹で渦巻いている感情を何とかしたくて、どこかの掲示板とかはてな匿名ダイアリーとか何でもいいから吐き出してしまおうかと思っていたのだが、吐き出そうにも言葉にすることすらできない状態が続いていた。こういう感情的なことを書くのは相応しくないとどこかで制限をつけていたが、自由に発言するのが憚られるという意識がさらに己を苦しめることになる気がしたので書いた。

眠れないので寝るのを諦めたら眠りやすくなった

数か月にわたり寝ても熟睡感がなく、できるだけPCやスマホの画面を長時間見ない・朝は決まった時間に起きるといったことを続けていましたが、目覚めた時の疲労感がひどい状態が続いています。夜中や朝方に目覚めることがあってもトータルで7~8時間は眠っているはずなのに、全然寝た気がしないのです。

医師から処方された睡眠導入剤では眠ることはできても、翌日まで効果が残ってしまい日中ぼんやりしてしまったり、疲労感は結局残ったままだったりで思うようにいきません。

 

起きていても気持ちよく動けず眠っても疲れは取れないので、いっそいつまで眠らずにいられるか試してみようと、医師の言いつけを守らず規則正しい生活を放棄してみたところ、逆に自然と眠気が差すようになってきました。

夜更かししても朝決まった時間に目覚めるのは変わらないので睡眠時間は3~4時間、日中に眠気が差した時は、タイマーをかけて10分くらい目を閉じて座っているだけで結構すっきりしました。それで夜に眠たくなるわけではなかったので結局また夜更かしするのですが、同じように過ごしていたら徐々に日付が変わる前から自然と眠気が来るようになってきています。 

夜更かしして何をするかというと、日付が変わっても寝床にも行かず、コーヒーを飲みPCの画面を見続けたり音量をあげてイヤフォンで音楽を聴いたりと、規則正しく生活するために今まで禁止していたことをやり始めたわけです。

早寝早起きして食事は3食摂って家事をきちんとこなしてきちんと暮らそう、はやく健康になろうなどと、つらかった職場から解放されてもなお、自分自身の「ねばならない」に縛られて本当に望んでいる1日を過ごせていなかったように思います。

行為自体は不健康極まりないのかもしれませんが、健康って結局は体だけでなく心にも通じていて、必ずしも規則正しい生活=健康な生活とはいえないのでしょうね。

 

眠れない夜はチェコアニメ「アマールカ」のDVDがいい入眠剤になってくれる時があるので時々眺めていますが、子羊が葉っぱを食べてサイケデリックなことになる「子羊を助けた日」なんてむしろ目が冴えてしまいそうです。 

アマールカ ブック〜おやすみ編〜(DVD付)

アマールカ ブック〜おやすみ編〜(DVD付)

  • 作者: 小林祐子,ヴァーツラフ・ベドジフ,鈴木惣一郎
  • 出版社/メーカー: LD&K BOOKS
  • 発売日: 2011/06/27
  • メディア: 単行本
  • 購入: 1人 クリック: 1回
  • この商品を含むブログを見る
 

アマールカがまた結構ふてぶてしい女子で夜中に笑いながらやさぐれそうになります。 

 

ただ、睡眠時間が短いと太るという説が大変怖ろしいです……。早く健康になりたい。

suimin-shougai.net

プラネタリウムへ行った時のこと

先日15年ぶりくらいにプラネタリウムへ行った。

児童向けの科学館と併設になっていて、最後に訪れた時と建物の様相も展示物も変わりなかった。有志の方が撮影した天体写真が最近のものになっているくらいで、宇宙開発に関する年表は1992年くらいから更新されていないし、パソコンコーナーは灰色の箱型のモニターが現役で活躍している。惑星の説明のところでは冥王星のイラストが描いてある部分に、平成18年8月24日に冥王星は惑星から除外されたと黄色いテプラが張ってあった。夏休みのはずだが子どもの姿は少なく、展示物がみんな埃をかぶってしまいそうであった。

 

プラネタリウムが開場するとどこからか家族連れがぞろぞろやってきて、半分くらい座席が埋まった。ひとりで来ている暇そうな客は私ひとりであった。

投影が始まると、係員のお姉さんが画面の方角や当日の日の入りから説明してくれる。ペルセウス流星群のピークを迎えようとしていた時期だったので、流星群の観測について話が聞けるかと思っていたが、火星と土星とアンタレスが接近して三角形をとっている方の説明に3割くらい取られたように思う。夏の大三角形についても星座というよりほとんど1等星についての説明だったし、毎回説明されていた(と記憶している)北極星の見つけ方については全く出てこなかった。火星とアンタレスの接近が一番のニュースだったからそこに注力された結果だと思う。

2016年8月 火星とアンタレスが大接近 - アストロアーツ

前半20分で当日の星空の説明があって、後半25分くらいは宇宙に関する教育番組が投影された。天井のドームいっぱいに映し出されるので、映画よりも広い画面で立派な星空の映像を見られる。実際の空に比べたら所詮建物内のささやかなスクリーンに映し出されるにせものの星たちだが、空を見上げても残念ながら星なんて見えやしないのである。港があり、工場があり、山が連なっているこの地域はいろいろなものが星空を遮る。夜中でも街の灯りは消えないし、地平線も水平線も見えない。

満天の星空が見られたらそれは美しいだろうが、たとえにせものでも本当の星空を再現しようとするプラネタリウムの天井が好きだ。

 

f:id:karasawa_a:20160829233433j:plainf:id:karasawa_a:20160829233330j:plain

プラネタリウムの投影機を見るたびに蟻みたいだと思ってしまう。こんな大きなものがくるくる回りながら天井いっぱいに星空を映してくれるのだと思うと、なでさすってやりたいような気持ちになる。

 

スーパーに行けなかった(夢の話)

妙に鮮明な夢を見たので記録しておく。

 

スーパーに用事があり、行きなれた商業施設に入ると施設自体がリニューアルオープンしたという。元々は施設中央が屋外広場になっていて、広場を囲むように建物が配置されいろいろなお店が軒を連ねていたのだが、イオンモールのような長細い施設になっていた。入ってすぐにカルディがあるのだが、白い壁と自動ドアに阻まれて本当にカルディなのか怪しい。商品が山と積まれているいつものカルディではなく、コーヒーを配っているお姉さんもおらず、カルディでおやつを買いたいなと思いながらスーパーを目指すことにした。

食品系の店は施設の奥の方にかたまって配置されていると何故か私は確信しており、わき目も振らず歩く。建物は壁一面真っ白で、曲がり角が多くて見通しが悪いが一本道である。いろいろな店が並んでいるはずだが、壁も扉も真っ白で本当に店があるのかわからない。突然視界が開けて、吹き抜けになった広場に出た。見上げると巨大なLEDの照明が天井にひっついている。広場はT字路の交差部分にあたり、私は前方と右側に進めるはずなのだが、何故だか前に進んではいけないと思った。広場の右側には円形のソファーというかクッションみたいなものがいくつか置いてあり、先に病院の受付がある。何科の病院かわからないが、スーパーに用事のある私はそこに病院があることが気に入らず、歩いて損したような気分になった。

壁に施設のフロア案内図があり、明らかに私が通ってきた道とは全く違うマップが描いてあるのだが、目当てのスーパーの場所がわかったので機嫌を直してスーパーを目指した。案内図ではフロアの真ん中あたりの左端にスーパーがあったので、気づかずに通り過ぎてしまっていたようだった。来た道を逆走してスーパーを見つけたが、入ってみるとスーパーを経営する親会社が展開している別のスーパーであることがわかった。品揃えに大きな違いはなく、ポイントカードも同じものを利用できるが、デパ地下のスーパー程ではないにしても少々お高めのスーパーなのである。これでは買い物できないと思って何も買わずにスーパーを後にした。

帰りにカルディに寄っていこうと思っていたのに、入り口付近にあったはずの店舗がみつけられず、おやつも買えなかった。おかしいなと思いながら外に出ると、内装は大きい病院みたいに真っ白で新しかったのが、ボロボロの公団住宅みたいな、商業施設とは思えない建物になっていた。こんなボロいアパートあったっけと思いながら、スーパーに行けなかったしどうしようと思っていたら目が覚めた。

 

やたらとスーパーと書き続けて、目がおかしくなりそうだった。

今でも親に縛られていたのだと気づいて悲しかったこと

あまり親との関係が良好でないと思っている。親はどう思っているかわからないが、少なくとも私自身は同居によって受けられる恩恵よりもストレスの方が上回る。実家と同一市内とはいえ、ひとり暮らしができていることで自分を制限する親から解放されたと思っていた。

 

在職中に休職を繰り返していた頃、時々母親から電話がかかってきていた。

体調はどうなのか、食事は取れているのかと確認はされるものの、苦しい・動けないと伝えたところで駆けつけてくることがないのはわかっているので、適当に話をしていた。毎回必ず金銭の心配をされ、足りないなら言えと繰り返される。現段階ではそこまで困窮するほど金銭的に追い詰められておらず、私が貯金をするのは親に借りを作りたくないという理由もあるので、意地でも援助は受けたくないと思ってしまう。

頑なに金銭面での援助を断り続けていると、ある時「こういう場合、甘えられるときは甘えていい」と言われたのだが電話を切った後、ありがたさや嬉しさより急激な悲しみに襲われた。どうして私が子どもの頃に、私自身に対してそんなふうに言ってくれなかったのか、とこみあげた。同時に、嫌だ嫌だと言いながら、未だに母親に依存している自分に嫌気がさした。

 

何でもかんでも親を原因とするような考え方をしてもしょうがないと思って、何より親と対峙するのが不気味で、とにかく距離を置くことで平静を保ってきたように感じる。親がいなくとも平穏無事に暮らしているひともいるから自分もそのつもりで生きればいいと思っているのに、人間関係でのトラブルに直面した時、陰に親の姿を見てしまう。

正面切って親に立ち向かったところで今さら関係が良好になるとは思わない。お互いに言葉も気持ちも伝わらないまま傷つくだけの結果が予想できる。普通に会話をしている時でも、物事に対する目線があまりにも違うと感じるからだ。職場で管理者目線で話すタイプと作業者目線で話すタイプがぶつかり合って会議が全く進まないことがしょっちゅう起きていたが、きっと似たようなことになる。

 

とりあえずこのブログや描いている漫画や読んでいる本のことを親に知られたくない。知られたら最後、全てをチェックして干渉してくることが予想されるからだが、親の前ではおそらく思春期の子どもと同じになっている己を恥じる。それくらい親に縛られたままであったことが悲しい。

さっさとこんな縛りから脱出したい。そのためには親と対決することでもセラピーなんぞを受けることでもなく、創作のネタにでもしてしまうのが健康的であるように思う。

キャラクター化する私

ブログに書こうと思っていたことがあったのだが忘れてしまった。

スマホで文章を書くのが苦手で、そもそも長いことスマホをいじるのが馴染まないので大抵のことはPCで済ませてしまう。外出時も買い物メモ代わりにスマホのカレンダー機能を使うくらいで、文章を書きたい時は手帳に書く。「こういうことを書きたい」とふと浮かんだ瞬間にメモを残せばいいのに、ああだこうだと頭の中でこねくり回しているうちに、いつの間にか元々書きたかったことが飛んで行ってしまっている。

 

今、特に投稿するあてもなく漫画を描いているのだが、地道に作業をしている最中にブログに書きたいことが浮かんでくるくせにPCの前に来ると漫画のことばかり気にしてしまう。自分の中で何となくだが、漫画は創作でありブログは記録であると線引きしている部分がある。ブログにも創作文を書くことはあるが文章として読まれることを意識しているので、書いた内容を漫画にはしないし、漫画のネタとして思いついたことを創作文にしようとは思わない。漫画は絵で表現するフィクション、ブログは文章で表現する記録だと思い込んでいる頑迷な己を感じる。何なら実録漫画を描いてこのブログにアップしてもよいのだろうが、まず実録漫画が描けない。

実録漫画を描けるひとは本当にすごいと思う。創作物の中に自分自身を登場させるというのが、まずすごい。私は自分自身をキャラクター化できない。

 

しかし今ブログを書いている私は記録を残すという役割を持った私であり、漫画を描いている時の創作する私とは別人のような気もする。漫画と創作文でも、同じ創作とはいえ自分の中の何かを切り替えて行っている感覚がある。いつでもどこでも同じ顔をして同じことを言っている私というものは存在せず、無意識に自分をキャラクター化して分裂しているのかもしれない。

はてなブログ用の記録係としての私はそういう風に思っているのかもしれない。