読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

スーパーに行けなかった(夢の話)

雑記

妙に鮮明な夢を見たので記録しておく。

 

スーパーに用事があり、行きなれた商業施設に入ると施設自体がリニューアルオープンしたという。元々は施設中央が屋外広場になっていて、広場を囲むように建物が配置されいろいろなお店が軒を連ねていたのだが、イオンモールのような長細い施設になっていた。入ってすぐにカルディがあるのだが、白い壁と自動ドアに阻まれて本当にカルディなのか怪しい。商品が山と積まれているいつものカルディではなく、コーヒーを配っているお姉さんもおらず、カルディでおやつを買いたいなと思いながらスーパーを目指すことにした。

食品系の店は施設の奥の方にかたまって配置されていると何故か私は確信しており、わき目も振らず歩く。建物は壁一面真っ白で、曲がり角が多くて見通しが悪いが一本道である。いろいろな店が並んでいるはずだが、壁も扉も真っ白で本当に店があるのかわからない。突然視界が開けて、吹き抜けになった広場に出た。見上げると巨大なLEDの照明が天井にひっついている。広場はT字路の交差部分にあたり、私は前方と右側に進めるはずなのだが、何故だか前に進んではいけないと思った。広場の右側には円形のソファーというかクッションみたいなものがいくつか置いてあり、先に病院の受付がある。何科の病院かわからないが、スーパーに用事のある私はそこに病院があることが気に入らず、歩いて損したような気分になった。

壁に施設のフロア案内図があり、明らかに私が通ってきた道とは全く違うマップが描いてあるのだが、目当てのスーパーの場所がわかったので機嫌を直してスーパーを目指した。案内図ではフロアの真ん中あたりの左端にスーパーがあったので、気づかずに通り過ぎてしまっていたようだった。来た道を逆走してスーパーを見つけたが、入ってみるとスーパーを経営する親会社が展開している別のスーパーであることがわかった。品揃えに大きな違いはなく、ポイントカードも同じものを利用できるが、デパ地下のスーパー程ではないにしても少々お高めのスーパーなのである。これでは買い物できないと思って何も買わずにスーパーを後にした。

帰りにカルディに寄っていこうと思っていたのに、入り口付近にあったはずの店舗がみつけられず、おやつも買えなかった。おかしいなと思いながら外に出ると、内装は大きい病院みたいに真っ白で新しかったのが、ボロボロの公団住宅みたいな、商業施設とは思えない建物になっていた。こんなボロいアパートあったっけと思いながら、スーパーに行けなかったしどうしようと思っていたら目が覚めた。

 

やたらとスーパーと書き続けて、目がおかしくなりそうだった。

今でも親に縛られていたのだと気づいて悲しかったこと

雑記

あまり親との関係が良好でないと思っている。親はどう思っているかわからないが、少なくとも私自身は同居によって受けられる恩恵よりもストレスの方が上回る。実家と同一市内とはいえ、ひとり暮らしができていることで自分を制限する親から解放されたと思っていた。

 

在職中に休職を繰り返していた頃、時々母親から電話がかかってきていた。

体調はどうなのか、食事は取れているのかと確認はされるものの、苦しい・動けないと伝えたところで駆けつけてくることがないのはわかっているので、適当に話をしていた。毎回必ず金銭の心配をされ、足りないなら言えと繰り返される。現段階ではそこまで困窮するほど金銭的に追い詰められておらず、私が貯金をするのは親に借りを作りたくないという理由もあるので、意地でも援助は受けたくないと思ってしまう。

頑なに金銭面での援助を断り続けていると、ある時「こういう場合、甘えられるときは甘えていい」と言われたのだが電話を切った後、ありがたさや嬉しさより急激な悲しみに襲われた。どうして私が子どもの頃に、私自身に対してそんなふうに言ってくれなかったのか、とこみあげた。同時に、嫌だ嫌だと言いながら、未だに母親に依存している自分に嫌気がさした。

 

何でもかんでも親を原因とするような考え方をしてもしょうがないと思って、何より親と対峙するのが不気味で、とにかく距離を置くことで平静を保ってきたように感じる。親がいなくとも平穏無事に暮らしているひともいるから自分もそのつもりで生きればいいと思っているのに、人間関係でのトラブルに直面した時、陰に親の姿を見てしまう。

正面切って親に立ち向かったところで今さら関係が良好になるとは思わない。お互いに言葉も気持ちも伝わらないまま傷つくだけの結果が予想できる。普通に会話をしている時でも、物事に対する目線があまりにも違うと感じるからだ。職場で管理者目線で話すタイプと作業者目線で話すタイプがぶつかり合って会議が全く進まないことがしょっちゅう起きていたが、きっと似たようなことになる。

 

とりあえずこのブログや描いている漫画や読んでいる本のことを親に知られたくない。知られたら最後、全てをチェックして干渉してくることが予想されるからだが、親の前ではおそらく思春期の子どもと同じになっている己を恥じる。それくらい親に縛られたままであったことが悲しい。

さっさとこんな縛りから脱出したい。そのためには親と対決することでもセラピーなんぞを受けることでもなく、創作のネタにでもしてしまうのが健康的であるように思う。

キャラクター化する私

雑記

ブログに書こうと思っていたことがあったのだが忘れてしまった。

スマホで文章を書くのが苦手で、そもそも長いことスマホをいじるのが馴染まないので大抵のことはPCで済ませてしまう。外出時も買い物メモ代わりにスマホのカレンダー機能を使うくらいで、文章を書きたい時は手帳に書く。「こういうことを書きたい」とふと浮かんだ瞬間にメモを残せばいいのに、ああだこうだと頭の中でこねくり回しているうちに、いつの間にか元々書きたかったことが飛んで行ってしまっている。

 

今、特に投稿するあてもなく漫画を描いているのだが、地道に作業をしている最中にブログに書きたいことが浮かんでくるくせにPCの前に来ると漫画のことばかり気にしてしまう。自分の中で何となくだが、漫画は創作でありブログは記録であると線引きしている部分がある。ブログにも創作文を書くことはあるが文章として読まれることを意識しているので、書いた内容を漫画にはしないし、漫画のネタとして思いついたことを創作文にしようとは思わない。漫画は絵で表現するフィクション、ブログは文章で表現する記録だと思い込んでいる頑迷な己を感じる。何なら実録漫画を描いてこのブログにアップしてもよいのだろうが、まず実録漫画が描けない。

実録漫画を描けるひとは本当にすごいと思う。創作物の中に自分自身を登場させるというのが、まずすごい。私は自分自身をキャラクター化できない。

 

しかし今ブログを書いている私は記録を残すという役割を持った私であり、漫画を描いている時の創作する私とは別人のような気もする。漫画と創作文でも、同じ創作とはいえ自分の中の何かを切り替えて行っている感覚がある。いつでもどこでも同じ顔をして同じことを言っている私というものは存在せず、無意識に自分をキャラクター化して分裂しているのかもしれない。

はてなブログ用の記録係としての私はそういう風に思っているのかもしれない。

万歩計の代わりです/お題スロット「ポケモンGO」

雑記

会社を辞めて、涙をこらえて毎朝電車に乗る必要もなくなったと同時に、反動で外出そのものが嫌になりそう……と思っていたところに現れたポケモンGOは、今のところ私のひきこもり抑止の一端を担ってくれています。

ゲームしたい欲を満たしてくれる

ちょうど初代ポケモンが発売された時分に小学生だった世代なので、白黒のドット絵だったポケモンがカラーでなめらかに動いているだけで感動です。「ポケモンGO」というゲームとしてのシステムには賛否両論あるのでしょうが、戦わせたり強化したりするより淡々と集める方が好きだった身としては、ポイポイとボールを投げてポケモンゲットだぜとまた遊べるだけで結構満足です。

正直なところ、幼い頃からゲームというのは裕福な家庭の子どもが遊ぶもの、よそのお宅でちょっと触らせてもらう程度のものだと思っており「自分はゲームで遊べるような身分じゃない」と妙な後ろめたさを感じていました。そんな後ろめたさを唯一感じずに遊べるのがポケモンだったので、今ポケモンGOで遊べることで「子どもの頃、もっとゲームしてみたかった」欲が満たされているように思います。

あと、ゲームする気力はあるんだからもっと元気になっていけるはずだと無理矢理ポジティブになります。 

万歩計代わりになる

先日、かかりつけの病院で妙に脈が速いと言われて「公園を散歩して図書館に行ってきた直後だからだと思う」と告げると、「ポケモンか? ポケモンGOで遊ぶのか?」と明らかにポケモンを知らないであろう看護師さんに食いつかれたので「万歩計代わりにいいですよ」とお茶を濁しておきました。

ゲームと同じように、歩くとポケモンに遭遇するだけではなく「ポケモンのタマゴが孵化する」機能があるのがすごいと思っていて、私の場合図書館まで出かけると徒歩で2kmくらいなので、往復でタマゴのひとつやふたつはたいてい孵化します。iPhoneにも歩数カウント機能はついていますが「今日は〇km歩く」なんて意識するより、うろうろしてたらポケモンが産まれるかもしれないと思いながら出かける方が楽しいものです。

ゆっくり自転車で走るとかプラレールに乗せるとか移動距離を稼ぐ方法はいろいろなのでしょうが、地道に歩いた分だけポイントが溜まったりタマゴが孵化したりする、地味な感じが自分に合ってる気がします。 

男にも女にもなれる

すごく感動したのが「着替える」からスタイル変更で性別をいつでも変えられるところです。名前は1度しか変更できないようですが、スタイルチェンジでいつでも男にも女にもなれる自由。

f:id:karasawa_a:20160825202540j:plain f:id:karasawa_a:20160825202550j:plain

元のゲームで旅に出る主人公たちは10歳ちょっとの少年少女のはずですが、ポケモンGOは海外で制作されたからなのかユーザー層を意識しているのか、立派な美男美女に変身できて嬉しゅうございます。

ポケモンはもともと男の子の冒険物語だったし、後に男女それぞれの主人公が選択できるようになってからも、最初に性別を決めたらずっとそのままプレイしなければならなかった記憶があります。

madeingender.com

「あなたはどちら?」と後戻りできない選択を迫られるのではなくて、能動的に選び取っていける、途中で変えることもできる「スタイル」という表現が優しい。 

以下は女の子のスタイルをコロコロ変えていた後に通常画面へ戻った図です。見たことないスタイルの主人公がそこにいました。すぐに元の姿に戻りました。

f:id:karasawa_a:20160825224345p:plain

 

実は、ジムはいろんなひとが集っていそうだしグループ(チーム?)に加入しないといけないのが怖くて未だに行ってません。てくてく歩いてボールを投げてるだけでいいので、このままぼっちプレイにも優しいゲームであってほしいです。

f:id:karasawa_a:20160825202523j:plain

ヘンなニックネームをつけるのもポケモンの楽しみであります。自分ときどきこんなふうになるわ。

毎日苦しくとも、ブログくらいはちょっと楽しく書きたいなと思えるようになってきている。

 

お題「ポケモンGO」

20160824

雑記

5年近く勤めた会社を辞めた。有給休暇の都合でまだ籍は残っているが、自分を痛めつけてきた職場にもう行かなくていい安心感よりも、役立たずな己がついに露見して打ちのめされる感覚が日常を占めている。時々無性に寂しくなり、体に穴が空くような感覚に襲われる。

何らかの情報を受け取るのも発するのも怖く感じて、しばらくブログ更新どころか他のブログを読むのも憚られた。優しい言葉も厳しい意見も、うまく咀嚼できず自分を責める材料に変換して受け入れてしまう。手帳に日記をつけはしても、外側へ出ていくエネルギーはなかった。

 

とにかく不安感がひどく、瞑想だマインドフルネスだと本を読んでみたり内容を実践しようとしてみたりしたが「今ここ」にある自分なんてものに気づいた時こそ、自分だと信じていたものが消え去って私は壊れてしまうんじゃないかと強い恐怖に駆られ、余計落ち着かなくなってしまった。

職場での「かくあるべき姿」への執着が依然として残っていて、その姿を保てなくなったうえに職場自体から離れていったことから、自信を落伍者扱いしてしまっている。「かくあるべき姿」を失って、どこへ行けばいいのかわからないのだ。劣悪な職場からの脱出に成功して自由を手に入れたといってもいいのに、自分の中に拠りどころがなくて身動きが取れない。

 

せめて好きなことをしようとすると、時間があるのだからこの本を読まねばならないとか、1日1枚絵を描かなくてはいけないとか、自分で自分の楽しみを奪うような条件を付けてしまう。外出はできるのでなるべく歩くようにしているが、時間を惜しむように早足になる癖は抜けない。人ごみを通り抜けることにストレスを感じる。

そもそも通院していて薬を飲んでいる時点で健康体とはいえないのに、体は動くのだから活動しなくてはならぬと多少きつくても動き回り、動けなくなると甘えだと自分を責める。安静にしていたら、それはそれでだらけている状況を延々と責め続け、どうなるかわからない未来の心配をしてしまう。

 

少しずつ考え方を変えていこうとしているが、遡っていくと親にぶち当たってしまい閉口する。今までは職場や個人の能力の問題だと思っていたことが、大元をたどると親との関係によるものではないかと最近やっと気がついた。もう少し考えがまとまったら何らかの形に残しておこうと思う。

 

当面の目標は自分で自分の面倒を見ることだ。生活という意味だけでなく、衣類をととのえるとか、化粧をするとか、身体そのものに対するケアというか面倒見がすごくよくない。

今まで、自分を犠牲にすることで誰かの役に立っている意識がとても強かった。見た目ヨレヨレで仕事がんばってるんだから許してほしい、認めてほしいと思っていた。誰かにいいよと言ってもらわないと、自分を認められないのだ。

他者目線に頼らずに自分で自分の面倒を見ていかないと、何度でも同じことを繰り返すだろう。きっと自分への優しさが足りていない。

休職を繰り返すくらいなら、そんな職場からは離れてしまおう

仕事

4月、5月は休職していました。昨年9月末から11月末に休職したのち、職場復帰してから半年も経たずに再び出社できなくなりました。医師からは、うつ状態に陥ると休職を繰り返しても不思議はないと言われていたので、半分は仕方のないこと・もう半分は自己管理が甘かったくらいの考えに留めてひとまず2か月間の休養をいただいたのです。

ですが、ゆっくりと休養がとれて落ち着きを取り戻したので今月から職場に戻ったものの、ひと月も経たないうちに音を上げています。

 

人が足りない・残業が多いといった業務に対するストレスが引き金だと考えて、ひとまず休んで心身をととのえればなんとかなると思っていたのが間違いでした。個人に対する業務量が多いのは確かですが、それ以上に職場の人間関係をどうすることもできない苦しさが根本にあったのです。

仕事中に業務内容や従業員に対する文句が聞こえてくる、直接的に損失につながるようなミスでなくとも執拗に指摘する、残業が慢性化していても見て見ぬふりをする……。休職しようとも一応私は管理者(SV)なので、作業内容の見直しや残業対策をしましょうと上司に持ちかけると、できない理由をつらつらと挙げられるか、やり方も対応も丸投げされて独りで抱え込むしかない状況になってしまいました。他にも同じ立場のSVは複数名いますが、自分のルーチン以外の現場管理・業務改善らしい活動を誰もしていないようです。そもそもお互いがどんな仕事をしているのかが不透明で、意見を求めたり頼みごとをしたりする以前にコミュニケ―ションが取れていません。

上司を頼るのは難しく、横並びのはずのSVと結託もできず、現場からは不平不満の声が上がり重苦しい雰囲気です。重苦しいというのは比喩ではなく、本当に職場に行くと空気が澱んでいて息苦しくなります。

 

以前なら、自分の考えを根気よく伝え続けて少しずつ協力者を増やしていけば変えられることもある、と言っていたでしょう。ですが今は、そんなエネルギーを職場に対して使いたくないと思っています。

今の仕事は 「やりたいこと」ではないけれど「できること」ではあるのだから、心身が落ち着いて元気になってきたらまた真面目にやっていこうと、6月1日の復帰当初は考えていました。そんな殊勝な考えは2週間と少しの期間で吹き飛んで、今は職場から逃げ出したくてたまらないです。もちろん自身の力量不足は否めません。ですが、職場のひとに対する気持ちがどんどん離れているのです。業務自体は多少大変でもやっていけると思えるのに、このひとたちと同じ空間で働きたくないという気持ちの方が勝っています。

仮に業務量が減って作業が楽になったとしても、人間関係で生じる摩擦や無力感は変わらないだろうことを思うと、これ以上今の職場にいてもいずれ耐え切れなくなるでしょう。どうしてもやりたい仕事というわけでもなく、守るべき家族がいるわけでもありません。まして非正規雇用・時給制で働いている身分からすると、残業なく帰るために一所懸命仕事を片付けても、残業してゆっくりと仕事をこなすひとの方が高い報酬を得ていると思うと真面目にやっているのが馬鹿らしくなってしまいます。

 

休職するところまで追い詰められて、愛着もない職場に長居する理由はありません。逃げだと言われようが無責任となじられようが、自分の身を守るのが最優先です。先のことがわからないからといって今の職場にしがみついたところで、次につなげる前にまた自分を損ねてしまいかねません。

自分に害をなすものからは距離を置くこと。これ以上傷口を抉られる前に、逃げる算段をつけて参ります。

ただの日記/3月13日

まずは少しでも記録を残す習慣を取り戻すところから始める。何もない1日だったと思っても、自分の気づきが足りないだけで何か起こっているのだ。

福岡市博物館の「アール・ヌーヴォーのガラス展」を観るため朝から出かける。初めてコメダ珈琲に行き、初めてモーニングというサービスを受ける。つくづく喫茶というか、外食に縁遠い生活を送ってきたのだと思う。博物館の展示品はほとんどがエミール・ガレかドーム兄弟の制作だった。きらびやかな宝飾品のような作品を期待すると的外れ感は否めなかったが、技巧を凝らした重厚なガラス花器を楽しめた。個人のコレクションをデュッセルドルフ美術館へ寄贈したものだそうで、ジャポニズムの影響を受けているもの、水中(というか魚)を表現したものが多いようだ。こうもり、おたまじゃくし、トカゲ、かたつむり、フンコロガシなど、なんでこんなモチーフをガラスで表現したのだと言いたくなる作品がたくさんあった。魚の頭が浮き彫りになっているガラスの花器に、いったいどんな花を活けるのだろうか。ガラスや器というと無意識に日常使いのものだと思っていたが、奇想天外で実用性のなさそうな展示品は、制作者やデザイナーの表現欲がストレートに具現化された自由さをたたえていた。

 

風が冷たく夕方から雨が降りだしたので、早めに帰りおとなしく家で過ごす。最近あまり眠れない日が続いているが、もう無理に眠らなくてもいいような気がしてきた。仕事に行きたくないと思う。でも仕事をもう少し気持ちよく頑張れたら、自然と眠れるようになる気もする。無理に頑張るからうまくいかないのだ。無理を少しずつ減らしていきたい。