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冬は、自分で終わらせる

3月といってもまだ寒暖の差が激しく、手放しに春だとはいえないこの頃です。体力的にも精神的にもつらさを感じながら、1日が瞬く間に過ぎてしまいます。

気づけばおかめ納豆の懸賞で当選したりんご40個はジャムになりタルトタタンになり1か月と経たず姿を消し、木曜時代劇「ちかえもん」は終わってしまい、ブログどころかインターネット自体にアクセスするのが億劫になっていました。入ってくる情報を整理できなくなる程に混乱した状態で、目の前の生活に振り回される毎日です。

でも確実に日は長くなってきていて、ふらふらと外を歩き日光に当たると、日常を取り戻したいと思うようになりました。自分の日常はこんな苦しくつらいものではなかったこと、今の状態は普通ではないことを歩くうちに思い出してきます。復活しようという心持ちが生まれてきます。

 

誰かが助けてくれるわけではないし、問題をじっとやり過ごせば解決するわけでもありません。現状打破しようにも、そんな気力は湧いてこない面倒な状態に陥っています。

それでも、暗くて寒い日々に震えていたこの前までとは少しだけ変わってきていて、PCの前で文章を書けるようになってきました。まだ力は足りないし、何ひとつ準備もできていないけれど、つらい冬の時期はもう終わりです。

今の自分に鞭打つような真似をするのは無理がありますが、苦しみの落としどころをつけて、新しい季節を目の前に広げてやるのです。急に元には戻れなくても、新しい自分のリズムを作りあげていけばいい。ゆっくりと復活していけばいい。

少なくとも今抱えている苦しみは当たり前のものではなく、本当に抱えていたいものを受け入れられるように、また一歩ずつ踏み出す季節をはじめます。

慣れたからといって、平気なわけじゃない/ディック・ブルーナ『うさこちゃんとたれみみくん』

寒さと仕事にやられて、倒れては跳ね起き奮闘する2月でした。

体を休める時間は確保できても、目に見えない傷が心を縮こまらせている感覚は抜けません。原因は大体似たりよったりで、そんなストレスにはもう慣れっこになったと思っていたのに新しい傷はどんどん増えていきます。

 

ディック・ブルーナの絵本『うさこちゃん』シリーズに、『うさこちゃんとたれみみくん』というお話があります。

 

うさこちゃんと たれみみくん (3才からのうさこちゃんの絵本セット2) (ブルーナの絵本)

うさこちゃんと たれみみくん (3才からのうさこちゃんの絵本セット2) (ブルーナの絵本)

 

 

うさこちゃんの通う学校に転校してきたダーンという男の子は片方の耳が垂れており、クラスメイトからは「たれみみくん」と呼ばれるようになります。そんな呼ばれ方を本当は嫌がっているのではないかと、うさこちゃんがダーンに尋ねると「うん、いやだよ」と答えが返ってくるのですが、「ぼく、もうなれてるから。それに、みんながぼくのことをもっとよくしったら、かわるんじゃないかな」。

いくら慣れているといっても、嫌なものは嫌なまま存在しつづけ、己を蝕んでゆくのではないでしょうか。「もうなれてるから」と言うのは、転校してくる前から何度も同じ目に遭っているから。「みんながぼくのことをもっとよくしったら、かわるんじゃないかな」という言葉には、積極的に誰かと関わったり、自分の気持ちを伝える機会が持てなかったことを想起させます。気持ちを伝えても理解してもらえなかった経験があるために、受け身になっているのかもしれない、とも。

傷ついた、悲しい、とわめきたてるのは簡単です。でもそれは一時の感情の表出でひとをねじ伏せようとする強引なやり方ともいえます。傷を負った時、冷静に状況を説明してこれ以上傷を増やさないようにするには相当なエネルギーを必要とします。エネルギーの消耗を防ぐために、苦しさに慣れてしまって耐え忍ぶのもひとつの方法ではありますが、平気なふりをして傷を深めていくのはとてもつらいことです。

絵本では、ダーンの話を聞いたうさこちゃんが、翌朝クラスメイトにある提案をします。とても簡単なことなのだけれど、自分がやろうと思うと難しくて勇気のいることです。こんなにうまくいくわけないじゃない、と穿った見方をしている自分を感じながらも、こうあってほしいと願うラストになっています。

 

うさこちゃんのように、みんなに提案するほどの勇気もエネルギーも、正直今の自分には足りません。でも、話を聴いて少しでも相手のことを考えられる思いやりは持っていたいのです。

苦しいのが当たり前なんて、地獄にいるのと同じではないですか。慣れによって感覚が麻痺してしまったとしても、傷は増え重荷はのしかかってきているはずです。取り返しがつかなくなる前に、平気なふりをしていた傷を手当てしてあげたいと思う2月の終わりでした。

なんにもしなかった日/2月21日

普段から大したことは何もしていないし、いつものように料理や洗濯や掃除や買い物はしたけれど、今日はなんにもしなかった気がする。そしてなんにもしていないことを後悔していない。

このところ仕事をしている時も家にいる時も、何かしていなければならないと焦燥感に追われる日々を過ごしていた。生きている限り何かを成し遂げなければならず、何者かにならなければならないとどこかで思っている。そして思うように物事を進められない自分に苛立ちを感じ自責の念に駆られる。

そんな思いがなくなったわけではないけれど、今日は思うように行動できていない自分を責めることもなく、まあいいかと軽く流して過ごしていたら夜になっていた。朝から甘いフレンチトーストを作り、家事を済ませ、何となく目についた漫画を読み、「スター・ウォーズ6/ジェダイの帰還」を観ながらカレーをもりもり食べて、ぼんやりと1日が過ぎてゆく。

普段なら、もっと何かしなくてはならないと焦ってしまい夜も寝つけない日が多いのだが、ぼんやりと過ごした今日は早い段階で眠気が来ている。仕事や生活が今のままでいいわけはないのだが、自分なりに自分を許すスペースを少しでも用意しておく方が心穏やかに過ごせるものだ。

「このままでいいのか」という問いを持ち続けながら、今の自分を受け入れる心の幅を広げていきたい。

ただの日記/2月20日

朝から1日中雨だった。病院に行き足の筋力低下を指摘されてかなりショックを受ける。寝込んでいたり運動ができない時期があったせいもあるかもしれないが、たるんだ足がみっともない。もっと歩かなくてはいけない。

 

通勤中に読み進めていた『12人の蒐集家/ティーショップ』(ゾラン・ジヴコヴィッチ/東京創元社)読了。読み進めていくうちに、装丁も内容も紫色に染まっていることににやりとしてしまう。

何かを集めるということは、同時に何かを失うことでもある。様々なものを集める12人のコレクションを描いた連作短編も面白かったが、中編の「ティーショップ」は自分も訪ねてみたくなる店だった。4ページにわたるメニューから、その時々に飲みたいお茶を注文したい。きっと私も「物語のお茶」を所望してしまうだろう。

あまり邦訳されていない作家のようで、もっと他の作品も読んでみたい。 

12人の蒐集家/ティーショップ (海外文学セレクション)

12人の蒐集家/ティーショップ (海外文学セレクション)

 

 

あまり外を出歩く気にもなれず、部屋を暗くして考え事をしたり、録画していた「スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲」を観たりした。明日、余裕があればエピソード6も観ようと思う。

こんなふうに休日はのんびり映画でも観ながら過ごしつつ、無理のないように働ける生活の仕方を模索していかねばならないと考えている。現状維持では、いずれまた体が悲鳴をあげるだろう。生活レベルを落とすにしても、できるだけ楽しいことを切り捨てずに暮らす方法を選んでいきたい。

 

明日の朝フレンチトーストにするために卵液にパンを浸しておいた。煮たりんごと生クリームも用意しておく。職場に持っていく弁当の準備なんてできていないが、休日の朝にゆっくりおいしいものを食べようというゆとりくらいあってもいいと思った。

今すぐに答えが出なくてもいい。考えて、行動することを諦めなければそれでいい。

手帳に書く、未来へのちょっとした手紙

いろいろありましたが、何とか元気です。ブログも思うように書けず日常生活のリズムも崩れがちだったのですが、やっと調子を取り戻しつつあります。

毎日書こうとしていたほぼ日手帳も、1月に比べて白紙のままめくるページが多くなってしまいました。またぼんやりと日々が過ぎていくのが続くのはいやだなと思い、久しぶりに手帳を開くと今日のページにはもう書き込みがありました。

週末は通院と家事で手いっぱいになってしまう今の心身の状態や、先日の観劇による弾んで張りつめた気持ちへの影響を考えたのであろう過去の自分からのメッセージです。たぶん先週の半ばくらいに書いておいたのだと思います。

落ち着いて休むことや考えをまとめる時間を取ることを予定として組み込まなければ、1日は目まぐるしく、あっという間に過ぎてしまいます。以前、これからやりたいことの予定を手帳に書き込んでおくとちょっとした希望になるという記事を書いたのですが、先の自分に向けた言葉を書いておくのも、リズムをととのえていくのに役立ちそうだと感じました。

少し疲れているかもしれない未来の自分へのちょっとした手紙は、読み返した時には過去から今の自分を大切に思えるやさしい言葉になるはずです。

 

今日は二十四節気の雨水ですね。雪が雨に変わる春のきざし、安定した暖かさを感じられる日が増えていきますよう。

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わたしの命はわたしのためにある

月曜日から風邪で頭が朦朧とし、熱はないとはいえ全身筋肉痛のようになり起き上がれなくなっていた。水曜日には調子を取り戻しつつあったが、今朝ハンガーから上着を取ろうとしたら何故か足を滑らせ家の中で盛大に転んだ。自分の体を支えきれず床で頭を打ったというのに、起き上がって最初に心配したのは転んだ時に当たった家具が壁を傷つけていないかどうかだった。

先日医師に体のこわばりを指摘されて以来、全身が凝り固まっていることにやっと意識が向くようになってきている。同じような姿勢で居続けるのが当然と思っていたので、体が凝っていること自体に気づいていなかった。

体を不自然な状態において、私はどうしたいのであろうか。

いくら仕事を頑張ったところで、体を壊しては働くことができなくなる。お金があっても遊びに行くこともできず、こうしてPCの前に座ることすら難しくなるかもしれない。活動し、食事をし、排泄し、眠るという当然のサイクルにのれなくなる体はとてもつらい。体の不調は心にも影響し、心の不調もまた体に影響する。

今までいろいろなもののために体を使ってきたが、いったいどれくらいのことが本当に体を使うに値することだったのだろう。無理や見栄や建前によって不要な負担を強いられた体をどれくらい労わってきたのだろう。わたしのためのわたしの体を、どれくらいわたしのために使ってこれただろう。わたし以外の何かのために、大切な体を蝕んできたのではなかろうかと、今更ながら思う。

たとえ他者に奉仕するために生きるとしても、わたし自身がいなければ他者もいないのである。わたしの体を、心を、命をわたし自身のために保っていきたいのだ。

 

満足に食事を摂り、風呂に入り、安心して眠れる寝床がある暮らしが当たり前でいいんだよと、片隅で眠れずに命を削っているわたしに声をかけたい。

煮たりんごにチーズケーキとアフターエイトですごしたひとりバレンタインであった。

気負うことなく自分のために作った甘いものは作っている最中も食べている間も無心になれる。明日から少しずつリズムを取り戻す。

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